争いは

つづく

意味がない:

おれがよく陥りがちな結論のこと

 

物事の意味(の有無)を(再)認識するプロセスは、無駄を切り捨てて効率的に事を進めていくために必要なものだと思ってる そういうことをしないとつまらないことで頭を思い悩ませることになり、気付いたら本当に必要な検討が後回しになって、それこそ意味がないからだ だけど最近になって考えるようになったのは、無駄の何がだめなのか?ということ、どうしていつも合理的でなければならないのだろう

種ではなく、個として考えてみたときに、生は無駄というか非合理的なものにほかならない 個としての使命や目的を持ち合わせぬまま勝手に生み落とされて人生をやらされるのだ 意味不明すぎる 種として見るならまだなんとなく、生というシステムについてああそうですかという感じがしなくもないのだが、今やもう人類はそんな段階にないじゃないですか いちいち自分なりの意味のようなものを考えて生きていかなきゃいけなくなった というか、個々人の本音がどうかは置いといて、社会全体がそのような要請を受けている感じがする 個として生きる必要性が生じてきている けれども、その意味というもの、個々人にとっての生の意味とは、初めからはっきりしているのではなく、各々が自分の内部に設定することではじめて決まるものである 決まりさえすればそれに従って合理的な選択をしていくことは可能であろうが、意味がわからないままなら、その生には個にとって自らの管理を離れて浮遊しているようなものではないか そのように考えると、おれにとっては生とはまったく非合理なものに思えるのである!

まあでも、その非合理な生というものを自分にとっての意味はさておきとりあえずやってみるとするなら、前提として非合理の上に乗っかってる分、そこにどれだけ非合理を重ねたってなんの問題もないような気がする あえて大した意味もなく非合理を選択するんだから、それをシステマチックに行っていくのはそれこそ無意味で非合理の極みを辿りすぎていると思う

ミニマルにすることで合理的に得られる成果というものを、自分は本当に望んでいるのか? 生きるからこその特に目的とか使命もなく人生をやるのだとしたら、無駄って、もしかしたら、あながち無駄でもないんじゃない?

無駄のその先に意味が見つかる可能性だってあるし

そんな感じ だからなんでもかんでも「意味がない」で切り捨てていくもんじゃないよな~と思う だからって、本当はほしいと思ってないものまでほしいつもりになりたくはないけど 意味がないことも楽しんでいたいよ

 

身の回りのことをなんでもかんでも意味があるかないかで判断してしまう 冷たいね 冷たい人間になりたくはなかったのにね

せめて、あなたのことは、誰かのことは、もし自分の中で合理性や無駄か否かの判断をしてしまったとしても、笑って肯定できたらいいな 喫緊の状況以外では!