争いは

つづく

無題10

忘れる

先日バイト先で研修を受ける機会があったのだが、その研修の翌週か翌翌週くらいに再び研修を受けるよう促された 違う研修かと思いきや同じ内容である 研修の担当の人(同じ部門にいるまとめ役のパートさん)はおれの研修を済ませたことを覚えていなくて、またおれの名前が研修完了者のサイン欄にあることにも気付いていないのだった 存在を完全にいないものとして扱われたわけでもないのだし、このこと自体はまあそういうこともありますよねと受け流せるものではある だけどおれは昔からなにかと存在を忘れられがちだから 自分がそういう人間であるという認識を取り戻してしまった

とはいえそんな感傷にずっと浸っているわけにもいかなくて、それは品出し娘の看板を勝手に背負うものとしての矜持のようなものであって、ともかくもずくを入れていると、ふと視線を遣った先のパートさんにピントが合った 出退勤の打刻(カードスキャン)を忘れて、よく理由書を書かされているおばあちゃんのパートさん 自身の痛み止めの注射代のために働いているのだという バツ3で夫とは全員死別しているらしい その人を見ていると、人が何かを忘れてしまうということに関して、とある直感が頭に浮かんだ 人は全てをずっと覚えている状態では今が苦しいから忘れるのかもしれない 今そのものに向き合うために色んなことを忘れていくのかもしれない まあ、多分正しくない直感だと思う が、なぜかものすごい発見のような気がして、ひとまずそういうことにしておいたら、ちょっと気分がまぎれてよかった

 

 

暇と退屈の倫理学 を読みました 去年の9月頃に手に取って読み終わったのが最近という通常ではあり得ない読書の仕方をしてしまった(おれからすれば、ありである)が、読んでよかったと思うし、絶対そういう内容の本ではないんだけど、自分にとっては記憶消してもう一回読みたいような本だった まず論じられていること自体がめっちゃ興味深いというか、丁寧でかつほどよく、読みながら自分に問うてみるようなことができるような内容になっていて、非常に楽しかった これは自分でも人生とか生きる意味とか、やり過ごしていくことについて時々考えたようなことがあったからこそかもしれない

あと、まえがきとかあとがきの著者の「俺」という一人称がかっこよくてよかった

 

読んだ後もいろんなことを考えたりした 一つは自分が何を楽しいと思うかについて 振り返ってみると大体が消費にとどまってしまっていることに気づいて落ち込んだが、何を楽しいと思えるかを考えると、自分の頭で考えたことを自分の手で構築していくことが楽しくて、おれの場合それはやっぱり服とか、あとは言葉になるんだろうと思った 最近になり料理もその仲間入りを果たしつつあるように思う でもいずれもいまだとりさらわれてとらわれるレベルではないと感じていて、実際何も生み出せてるわけではなく、そのことに焦らないわけでもないが、自分が楽しいと思えることを知っているのだからまあよいかとはじめて思えた

あの本で述べられていた答えを、おれは次のように解釈している 暇と退屈の運命にある人生をよりよくするのにすべきこととは、人間として生まれている自分が世界に対する柔軟さを比較的備えた生き物であることをわかって、そういう人間としての世界を生きる中で自分の楽しいという気持ちと何がそうさせるのかをわかること そしてそれをやってみたりすること である、と 解釈というにはそのまますぎるかもしれないし、ちょっと忘れかけてるところもあって間違ってるところがあるかもしれない(気になった人は読んでみてほしい) おれ自身はこのように受け取り、上記のようなことを考えたりしたというだけである

2つ目に考えたことといえば、便利と不便について おれはたまの「まちあわせ」という曲が好きだ その歌詞の「不便だ不便だ不便だ不便だ でも不便のほうが便利よりだいぶいい」という言葉に共感を覚えて以降、時々そのフレーズを脳内再生してはため息をついたりする

便利より不便の方がいいとはどういうことか 便利はたしかに、便利だ それ自体は最初新鮮で画期的だし、便利をうまく取り入れることによって自分がしたいと思うことを効率的にやっていくことも可能である それでもおれが不便のほうが便利よりだいぶいいと思うのは、ただのお得意の逆張り精神だけではない あくまでおれの考えではあるけど、不便のほうがそれに対する向き合い方、捉え方、やり方みたいなものに自らの裁量が許されているように思われるからだ

便利と不便、この対立する境地にはぞれぞれに、言葉が持つ意味と同一の実感というものが伴っている 実感があることは共通していると言える けれども便利と不便は、言葉の意味だけでなく、その境地が結果か過程かという点でも異なる 便利がさらなる便利への過程であると主張する人がいるなら、それは便利ではなく便利を目指す不便の過程であると言いたいし、もし便利と不便以外の概念を用いて便利をその過程というのならば、それはなんというか、あまりにも、ずるいと思う(なんだそれ) ひとまず、強引だけどそういうことにしたとき、おれが思うのは、不便は便利に至るまでの過程であるからこそ、その境地においては便利を目指すための自らの工夫というものが許されているということであって、またそれゆえに、消費ではない楽しさが生まれる余地があるのではないかということなのだ 伝わらないかもしれないけど… このことについて、少し前により直感的な段階で考えをツイート・ポストしてみたとき、相互フォローの方が反応してくださった 便利と不便のバランスの取り方難しいよね〜といった内容のことをつぶやいていて、最初はふむ?になったのだが、しばらく考えているうちに腑に落ちた 不便の中に生まれる手触りを大事にしたいけど、生活を成立させるならいちいち考えたりしないで済むようなたしかに領域も必要ではあって、その"妙"のことな…

ここまで考えて3つ目に考えたのは、余裕について 本の最後の方には、これを自分だけではなく自分とは状況の異なる他者のために考えることができたらよいね、みたいなことが書かれてあった そのことを、便利と不便について一通りのことを考えた後、ふいに思い出した たとえば、時間もゆとりもない人にこの考えを受け入れてもらうことってできるかな、きっと嫌な気持ちにさせるんじゃないのかな 色々考えること最近は増えていたけど、他者のために考えられたことこれまでなかったかもな おれが考えることっていつも自分視点の自分事ばっかりで、基本的に自分の感覚にしか則していないんだよな ここではじめて、さっきまでの考えは、無自覚にも余裕のある自分だからこそ納得できるものであったと気付いたりした もし、便利と不便に関して自分が考えていることが間違いではないとして、もう少し他者のことを念頭に置いてこのことを考えるとするなら、余裕というものについて考え、そのうえで余裕を行き渡らせるために必要なことを考えることも必要だろうと思う あいにく、現時点でおれは余裕がどういう状態を指すのかということについてしか考えが至っていない 物事の捉え方を自分で考えられる(選べる)状態が余裕があるということなんだとひとまず結論付けてはいるが、その状態を行き渡らせるにはどうしたらいいかがわからない 考えてもほとんど綺麗事しか浮かばず画期的な策を思いつくことはできないままだ 他者のために考え、策を練り実行していくことは簡単なことではない 今までそういったことを自然にやれてこなかったし余計にそう思うのかもしれない でもそのことを知ったからなのか、自分にできる範囲から手を貸すことの大切さをようやくわかれた気がする