争いは

つづく

リズム

いつもいつも考えてばかりいることは、なんだかんだ生きようとしている証左なのだと思う(証左ってなんで証右ではないん)

死のうとすることが思考停止というつもりはない

実際におれは死を志向しつつ思考をしていた 死を正当化することだけに脳のリソースを割いていたといっても過言ではない でも考える時間、それはたとえ死を肯定するために行うのであったとしても、一刻も早く死ぬためには非合理である 死に向かうつもりのその行為は、図らずも間違いなく死を先延ばしにしているのだ 死のうとするということは、まだ生きているということ 思考が停止したとき、それがおまえのおれの本当の死になる

おれはなんだかんだ生きようとしてきてここまできて、だからいまも生きてるんだなあと感じる 全く死にたくなくなったわけではないが、いまのおれは前を向くために自分なりに納得/克服しようとして物事について考えている実感がある それは、死を正しいものと信じるために色々を考えていた前の自分とは性質の異なるものではあるものの、現在なんとか前を向こうと思えるのは、そういう、振り返ることのできる“後ろ”というべき自分の歴史があるからこそなんだろう、と思う

感慨ぶけ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

生きるということは、相変わらず、死をゴールとするならめちゃくちゃ非合理なことだ でもその無駄をちょっと豊かなものにしてみたいという気持ちがいまのおれにはあります どうか見守っていて いや、見守ってもらわなくても勝手にやる

 

最近よく考えるのは自分のリズムについて ペースとか歩調とからしさとかでなく、自分のリズム リズムと言い表す以外に最適な表現が見つからないし、なんか語感がかわいくて気に入ってるから「自分のリズム」なの!

自分の人生を歩みたいのなら、自分のリズムというものを忘れちゃいけないんだね 自分を主体とする人生を歩むためには自分のリズムを保つことが一番大事なんだね そのことがようやく実感を伴ってわかってきた 勘違いしてほしくないのは、別におれは、自分の人生の主体を他人に預けることをだめだとは思ってないということ 人それぞれだしね ただ、その選択をする判断の主体は自分にないと、後々苦しいことになるんじゃないかと考えています うまく行かなかったとき、あとから人を恨むようなことになっちゃうから

責任ってなんか重苦しくて放棄したくなるけど、自分の行為や判断の責任は自分で引き受けるのがやっぱりいい でもあくまで引き受けるべきなのは「自分の」であって、他人のなにかしらの責任を負う必要はまったくない それはあんたのリズムではない、おれのリズムでもない、あいつのリズムなんだからね

人生の主体を乗っ取ろうとするやつ、テメーはダメだ デコピン100回食らわせたる

おれは昔は自分の人生の主体を他人に預けがちだったんだけど、なんか最近自我が育ってきたのか、もう絶対に預けたくはないんだ 自分の責任で自分の人生を生きていきたいと思ってる(時々死にたくなるのは大目に見て) 誰の責任もかぶらないし 誰にもおれの主体を奪わせない 奪えるもんなら奪ってみせな ふん

 

今日は、明るい時間にも関わらずイタチを見ました

妖怪・脆し強し(もろしこわし)より