争いは

つづく

映画観た(エドワード・ヤンの恋愛時代)

エドワード・ヤンの恋愛時代を観た感想または所感のようなもの

 

映像がフォーけ〜レストア版ということもあってか、フィルムカメラで撮った写真のような粗さと色彩がありつつも映像はわりかし精細で、なんだか今っぽさがあった 登場人物(とくに女性)のファッションも、今の自分が見ると現代的でものすごくおしゃれにうつった 当時の"ファッション"のリバイバルによる作用か、それともおれ自身がおれ自身のファッションを見つめる中で流行だけではないおしゃれのあり方に気づいた結果か、そのどちらも関係しているんだろうけど、めっちゃかっこよくてかわいくて、憧(どう)……だった 各キャラのモードというもんができあがってしまっていたね

 

男の人達がやたらといじらしくかわいらしく描かれていたのが印象的だった 情けない男ばかりなんだけど、なんか許したくなっちゃう、そういう愛らしさと憎めなさがあった

それと比較すると女の人達は別によさげに描かれてはいなかったかな 少なくとも自分の視点から見ると、この女なんなのよ!という感じの人物のほうが多かった ナイーブかつ強か 男の人達においては自分勝手さがかわいさでカバーされていた感があったが女の人にはそれがなかった気がする(おれは感じることができなかった)

例外的に、チチというキャラがひたすらにいい子で、かわいくて、妖精みたいで、守ってあげたい気持ちになった でもおそらくチチはそんなこと望んでいないんだよね ただ愛らしく存在するだけの存在ではない そういう自己を意図的に演出しているわけでもない ただ見え方とか印象とは別の意思・自己が存在している だから、おれみたいなことを思われるときっと困るのだ チチの自己と主体性をないがしろにしたくないって思うよ

 

画面構成とかカメラワークのことはよくわからないしそれほど意識していたわけでもないんだけど、ぼんやりと素敵だな~と感じた カメラの動きが少なめだったのかな?(音も少なかった?)そのことによる時空間の圧迫感のなさが登場人物の心情をこちらに想像させる余白を生んでいたように思う 適当言うてもうてるかも

チチとモーリーがふたりきりで話すシーンが美しくて好きだった

 

場面の切り替わるときの導入が面白かった

満腹作戦?

 

映画が始まってからしばらくは、正直なんだこの映画…という感じでよくわからなかったのだが、そのうち引き込まれていったよ 映画館で観れてよかった

自分の中では、シェイプ・オブ・ウォーター、バビロンに並ぶ好きな映画になったかも

 

 

映画、以前は見せられるものをただ観るだけだったのが、ここ数年のうちに、こちらからなにかを感じ取ろうとして観るように自らの鑑賞の姿勢とか態度が変化してきた気がする

作品から物語として表現されている範疇を超えてやたらとなにかを読み取ろうとすることには忌避感があった 明確なものならまだしも、暗喩的なものをわざわざ引っ張り出してくる必要はないように感じていた それはおれの教養に自信がなかったからかもしれないけど、とにかくしゃらくせーと思ったのだ まあ、いまも思ってる なのでなにかを読み取ることは苦手なままだし、いまもあんまりそれをするつもりはない 一方で、感じ取るということには自分の感覚にだけに責任がある感じがして、気が楽だ おれは評論家でもない、それを生業にしているわけでもないんだから、たとえ自分勝手だと言われようともそれで楽しいならいまは十分かなって思う

感じ取るということは、作品そのものではなく、まさしく自分自身を感じ取ることと考える 作品に込められた意味とかわかんないよ 明確に述べられてなければそれは想像にほかならないし そしてその想像なんて、各々の道程から導き出される精一杯の創造物に過ぎなくて、(作品からの影響があったとしても)それが自らのなんらかの反映の域を出るわけがないんだし どこまでいっても作品を通して自分と戯れているだけで、正しいも間違いもない 閉じた世界であるからこそ、一方的に各々の意味を付随させることが許されている …。

自分でない人の作品を観て、結局自分のことに帰着してしまうのはなんだかもったいないような気もするが、見せられるものをただ観るだけではわからないただ自分の人生を普通に生きているだけでもわからない自身のあり方やその変化を知覚できるのは面白い体験だなーと思う また、そういうのを他者と共有することで、作品に対しても自分の見る世界に対しても違った視点が加わることとなり、広がりとか奥行きが生まれるのも楽しい まあ、わたしとしては、好きだ…と思った映画に関しては他者の視点などできる限り排除したいものですが

 

自分なりに映画を楽しめるようになってきたようで、おれはそれがうれしい