争いは

つづく

不・不・不可避

親交のあった人の死を目の当たりにしたことがない 目の当たりにするどころか人伝に聞いたこともない 要するに、おれの周囲には死んだ人がいまのところはひとりもいないということ

 

死んでしまうときっと悲しいんだろうと思う 全く関わりのない、好きだったわけでもない芸能人・著名人の訃報でさえ少し悲しい ぽかりと小さな喪失感が心のどこかに浮かぶ

その人が前向きな気持ちで死んだのだとしても、おれは多分勝手に悲しんでしまう(実情を知らなければなおさら) だけど、死んだ事実だけではなく、死体という現実に対面した際にも、果たしておれは同じような気持ちになれるのだろうか
そういう不安に包まれる時がたまにある

 

この不安は人以外のなにかに対しても適用される 例えば、おれが動物を飼っていたとして、その動物が死んじゃったとき、自分はそういう現実とまともに向き合えるのか、ということである これは、死の事実と向き合えるのか?ということではない 存在の死を受け入れることはできると思っている ただ、おれにとっては死体が問題なのだ 死体を見て悲しく思えるのか

だれも「悲しく思え!」なんて言ってないんだけどさ

 

数年前、駅まで歩く途中で野良猫の死体を見た おのれの足元のすぐそば、歩道の隅に置かれている(?)のを、はっきりと目視してしまったのである

それは、びっくりしたような表情をしていた おおよそ安らかさとはかけ離れた様子で、自分にとって衝撃的なものだった もしかすると死の間際苦しんだのかもしれない

あの顔が脳裏に焼き付いている 鮮明ではないけども 思い出そうとするほど、粗くなっていってる気もするけども、たしかに残存している もう動くことはないのに、妙に躍動感のある顔つきをしていた

不安感を覚えてしまった

関わりがあったわけでもない野良猫の死をやたらと悲しむのも変な気がするが、あのとき、悲しいと思えずに、嫌…と思ってしまったのがずっとひっかかっている そのことを考えるたび少し落ち込む

 

もし大切な人が肉塊になってたら、どんな気持ちになっちゃうだろう 変な顔で死んでいたら、どんな風に思ってしまうだろう そのままの姿で動かなくなっていたら、おれはそれをどのように捉えるのだろう

 

死体を見て、もし、悲しいよりも嫌悪感といった感情やまったくの"無"が優先されてしまったとしたら、おれはその死んでしまった存在のことを何をもって大切であると思っていたことになるのかな 本当に大切に思っていたのか これは、なにか、難しく考えようとしすぎでしょうか

死体っていわば死んだ証拠なのに、事実を事実たらしめる現実であるのに、事実と現実の間で感情の乖離が起こるって、そんなことがあっていいんか

これらの疑問のようなものはただのよくある混乱として受けとめていいのか 死体を見て、その場できちんと悲しむなんてこと、実はできないものなのかもしれないし

おれはまだよくわからないけど

 

 

事実を先に知ってそのあとに現実を見るか、現実を見て否応なく事実を知らされるか、現実と事実が同時に変わる瞬間を目の当たりにするかで、感じ方もまた変わってくるんだろうな

 

できれば、みんなおれに見つからないように死んでほしい せめて安らかに眠ってほしい

できれば、死なないでほしい