争いは

つづく

発作 改

逃げてくれー

 

 

かつておれの病みの解放の場であったところ、Twitter

精神がやってられなくなると病みを全開に押し出したツイートを連発する そうして、たびたびフォロワーのタイムラインを汚染させては、浄化の願いを込めて、必ずセットで「ミュートしてくれ」「ブロックしてくれ」といった祈りを呟くのだった

 

いまでもたまに漏らしてしまうことがあるのはご愛嬌として、以前ほど病みをおおっぴらにしなくなったのは、SNSを社会的な場であると認識するようになったから ネガティブを投稿することへの風当たりの強さを知ったから フィジカルな空間としての現実とあまり変わらないとわかってしまったから SNS上で他人の目を気にせず振る舞うことに抵抗が生まれてしまったから

 

病みに一人で向き合い続けなければいけないのは辛く苦しい 結局、その気持ちとは自分自身で決着をつけないといけないものだけど、たった一人では耐えていられないこともある

アドバイスや馴れ合い、否定肯定も求めてない、ただ、おれの苦しみを人に知っていてもらいたい 自分を知っている人に話を聞いてもらって、気の毒だと言ってもらいたい もしくは、おれの愚痴で笑ってほしい でも愚痴を聞きたい人なんていないから、そんなのは夢のまた夢

やはり一人で向き合うしかない それか、カウンセリングを受けるか

 

  

せめて、この、おれの、かけがえのない、このブログにだけは、思うままに病みを出すことを許されたいのだが、いかがだろうか

ブログの記事は、あえて見ようとしないと目に入ることはない 見るか否かは訪問者に委ねられている 見たい人だけがおれを見てくれる その状態がほぼ完全であること、それすなわち最高

しかし、もしブログの記事を使って病みを解放するのなら、冒頭やタイトルに「※病み注意!」とか書いておかないとクレームが来てしまうかもな そんなの、絶対にいやなのだ!

各々で病み察知能力を鍛えやがれ!それがネットリテラシーってもんだ、ことおれのブログにおいてはな……と、言いた〜い

そのうちブログにも社会を感じてきてしまいそうだ おれ以外全員ブログやめてくれないかな

 

 

精神の状態異常にかかると、物事の考え方、捉え方がまるっきり変わってしまう 当然そのように思うかもしれないが、おれにおいては、以前よりもいくぶんマシであった最近の感覚をふまえてこの度久々にぐちゃぐちゃの精神を泳いでみたことで、ようやくそれを自覚したのだった

圧倒的に自己中心的な考えに支配される

他人の言動に不快感を抱きやすくなり、別に相手を傷つけたいわけではないのに、自分の不快感の解消のためだけに悪意ある一言を放ちたくて仕方なくなったり(実際放ってしまうこともある)

また、自分に対する評価や褒めを素直に受け取らず、いいように解釈するな、美化するな、馬鹿にしているのか 本気でそんな風に思ってしまったり

正常な時ではなんともないようなことで、ものすごく心を乱されて思考もねじれていく 消えたくなる

 

とどのつまり、おれの精神が悪い方に極まること、それは、こうしてみんなを攻撃してしまう可能性がなきにしもあらずということ

さながら、とげとげである(ピノキオピーのとげとげという曲を聴いてください)

ゆえに、病みを知っていてほしいと思う一方で、俺から逃げてくれとも思うわけなのだが、この本当の意味とは、あなたたちを傷つけたくないからとかそういうのではなく、些細なことで嫌な気持ちになってしまう自分のこころを守りたいというただの我が身かわいさ、保身でしかないのかもしれない

 


 

寝る時に包丁を携帯したい 寝返り打ったタイミングとかで身体に刺さって、あわよくば知らん間に失血死できるかも

でも、不確実だから、眠りに落ちて身体の力が抜けた瞬間に包丁がスッッとお腹に落ちてくるような仕組みの装置を作ったほうがいいか←これもそんなに確実ではないね

死んだらどうやって友達にそのことを伝えよう おれが一定期間スマホを開かなかったら死亡したということで知り合いに向けて連絡がいくようなプログラムを作ろうかな(勉強しよう…)

帰りの電車で寝たふりをしながら、昨日はそんなことを考えていた

今日は、エグチの美味しさと口内のエグチ感のことばかり考えて、帰路についた