争いは

つづく

去勢

めんどくさいな、と思うことで向き合った気になって後回しにしがちだったのを後回しにせずどんどこクリアしていこうとしたところ、各事項に対する重要なポイントの確認を怠っていたせいで、なんにも遂行できず、結果的に徒労も徒労に終わってしまった、

ということが1-2ヶ月くらい前にありました

かつての自分だったら多分ものすごいダメージを受けて、いっそう自信を失くしてただろうが、今回は何やってんだ……くらいで済んだ

決して前向きになれるわけではないけど、自己否定でだけ終わってしまわずに、反省をすることができたから、とっても上出来ではないかと思っています 今更ですが…

 

 

日記をつけたくて、iPhoneのメモアプリにちょこっと書いたりしとります まじで続いてなくて、いま※即席で一昨日と昨日の分書こうとしています ※3月30日

これをするのは、なんでもいいからきちんと意思をもって継続してみたいと思ったのと、自分の感情や考えといった内面のこと、それらの変化に対して、もう少し自覚的になりたいと思ったためです

毎日をただ過ぎゆく日々にするのではなく、おのれの日々にしたいといいますか…ゴニョゴニョ

 

 

 

 

昔から、感想や考えを述べたりするのが苦手でした

そもそも、そういったものの自覚が難しく、いくら頭の中をぐるぐるしたところで「へえ」とか「たしかに」「すごい」「いいね」くらいの感慨だけで終わってしまうことが特に中高生のころはほとんどでありました それで、困り果てては「感想 書けない」でよく検索していたものでした

いつからか、それまで「ほえー」と受け入れるばかりであった他の人の考えに触れると、その意見に対する反発心などが生じるようになり、なんとなく自分の考えの輪郭が掴めかけたりするようになりました それでも、どうにか掴んだものを言葉にして説明しようとすると、整理するのにまたとてつもなく時間かかるというのがここ数年の感覚でありました

 

感想も考えも、おれはどこか受動的なもののように捉えてる部分があったかもしれない 外界からの刺激をうけて頭の中に自然発生するようなものである、と

だけど、やはり、何か対象に対して能動的に接さないと考えなんて生まれようもないんだよな、整理するまでもなく 

時々忘れそうになるが、現在がそれでした

 

 

思い出すこと、振り返ることは自分に対する能動的な行為だと思う それをすることを通して、考えたり感じたことをおれは忘れないようにしたい 

悲しくて虚しい思いをしないよう

 

 

 

最近のおれはどこか自己啓発的というか、なんかそんな雰囲気を感じてはいませんか

おれは感じています ちょっと気味が悪いとさえ思っている でももう何だか、生意気言ってる場合でもないな、と思えてきて ダメなところ含め愛してもらおうとするのではなく、改善していかないといけないな、という気になってきちゃった 

なんでもかんでも「だって死にたいしな」で済ませてきたのに、生きることを前提にしてものを考えるようになっちゃった

死ねなすぎるし

 

このところよく考えるのは、それぞれの尖ってる部分を無くしていったら、人はどんどんおんなじような人間になってしまうのではないか、ということ 均質化して、個としての価値がなくなっちゃうんじゃないのか、といった危機感

尖りというのはその人なりのこだわりであり、らしさでもあると思ってた だけどアイデンティティとはそういう尖りと言われるようなものとは別のところに宿るものなのかしら

きちんとした生き方にクソくらえって思ってる自分が無くなっちゃっても、人はおれをおれとして見てくれるのか おれがおれをおれとして見れたらそれでいいのかもしれないけど、やっぱりおれは周囲がどう思ってくれるかが気になってしまうよ

 

 

抱きしめて………