争いは

つづく

コイルドコイル

人に気を遣う、配慮する、心配りをするということ

 

自分は歩くのがまあまあ速くて、それゆえ前を歩く人を追い抜くことが多いのだが、めちゃくちゃ歩みの遅いお年寄りだったり、脚の調子が良くなさそうな人を抜くときに、一瞬(これって嫌みっぽいかな)と考えてしまう

考えるのみで、決して歩みの速度を緩めることはないけど、この思いの正体は一体なんなんだ

 

純粋に人の気持ちを慮っているのか、その人の心を傷つけてしまった場合に起こりうる面倒を避けたいのか、なんとなくよく見られたいだけなのか

後者二つのどちらかだとしても、人の気持ちや感じ方を想像すること、その過程はたとえ無意識だとしても絶対に経由しているはずで、その点は全てに共通すると言える コアというか、基礎ようなものかもしれない

 

 

自分の思い、感情について疑問を呈し考えようとしたけど、それよりも、上記いずれかの思いから導き出された俺がすべきと思っている行為の方がだんだん不思議に思えてきた

背景にある思いがどれであっても、思いの表出としての行為が相手の気持ちにきちんと寄り添ったものでなければ自分としては無意味なわけだが、

結局これまでせずじまいだったそれは、やったところで本当に思い通りに機能していたのか

 

自分の歩行のスピードにあえて合わせてくる全く知らない人がすぐそばにいたとして、果たして快い気持ちになるだろうか

一緒にいる知人とペースが合ったら心地よかったりはするが、知らない人とそんな感じになっても、自分はむしろ不愉快かもしれない

自分以外の人がこれをどんな風に感じるかはわからない 

だけど少なくとも自分が不快に思うようなことは他人にもしないほうがいいんじゃないのか?

おれにはそういう信念だけはある

 

自分が行うべき(かも)と思っていた行動が、配慮の方向としてまったく正しいものではないことがなんとなくわかってきた

 

 

推量は難しい

気の遣い方、気の回し方、配慮の仕方が下手というか、おれはたぶん変なのだ

他人のことを気にかけてるつもりだけど、実際はそれ以上に自分のことを気にしていて、「おのれの行為により他者は自分に対してどんな印象を持つのか、その結果としてどんな面倒、損があるのか」みたいなことを他者の気持ちそのものを考えるよりもずっと意識しているのだと思う、無意識のままに

他者視点というか、他者感覚というのか、そういうものを無視して推量が進むから、思考がねじれたり行きすぎてしまって、おかしな発想に繋がるんだろうな

 

それでも、「見知らぬ人に歩行速度を合わせる」という奇行をしなかったのは、どこかで「考えすぎだ」とわかっていたからなのかな

 

 

 

 

就活を少しやってみて、おれという人間の判断において、おれが取り組んできたことの結果そのものよりも過程が重要視されるらしいことを知った

自分は、これまでなにかしら評価されることはあったけど、結果にこだわり何事も時間をたくさん費やしながらただ愚直に取り組むだけだったので、その過程を振り返ったところで、アピールになるような自分も思考や気持ちのプロセスもなにひとつ残っておらず、血の気の引くほどの絶望感を味わったのだった

結果にこだわると言っても具体的な目標を定めていた訳ではなかったから、計画を立て、実行するということができてなかったのも、もしかしたらそこに原因があるのかもしれないが




カントが 道徳的 ということについて、行動の結果ではなく動機が大事 みたいに言ってたように思う

(間違ってるかもしれません)

 

以前のおれはそれに心底納得できなかった

「誰かが誰かの行為によって結果的に助かったと感じているなら、助けた誰かがどんな魂胆を持っていようと別にいいだろ😡 」と思っていたからだ

多分、道徳的に生きる!みたいな使命を自分自身が持っていないからわからなかったんだろうけど、道徳的なことに限らなくても、何か自分が抱く使命に従い、生じた動機に基づいて行動するというのはやっぱり大事なことなんじゃないか

使命というのは将来の夢とかでもよくて、それをわからないままにするから、動機も揺らぐし、到達点を認識したり、設定することすらできなかったりするのかも

 

 


配慮とかの話からかなり脱線してしまった

とりあえず今後は定言命法に従ってやっていきましょうかな、と言いつつ…

その辺はまた自分できちんと考えることにします