争いは

つづく

押忍

趣味(娯楽)をジャブジャブ楽しんでやりたいみたいな欲はあんまりないのに、センス、才能、知識や専門性みたいなものに対する羨望と、自分もそんな人間になってみたいという願望、平たくいえば人間への憧れだけがある

そんなのってもう怪物ではありませんか

 

 

どこにいても何をしていても、自分視点でキラキラした人ばかりが目についてしまう

自分に過度な期待をして あんまり高望みしたって仕方ないよな と思えるようになってきたけど、自立して、好きに楽しくやっていそうな人を見ると、あまりのまばゆさにたちまち心を刺激されてしまい、羨ましくて羨ましくて、自分もそんな状態を実現したくて仕方なくなってくる

だけど、自分はなにをすればよいのか、なにから手をつけるべきかさえ、全くわからない もしかすると、わからないふりをしている場合もあるかもしれない

そんな自分に苛立ち、やがて過去を振り返ることしかできなくなるのだが、「自分は環境に恵まれてなかった」「だれもおれの素朴な思いを肯定することはなかった」などといったわがままな思考に蝕まれ、だんだんと、怒りと悲しみと憎しみの渦の中に飲み込まれていくのである

この過程で毎度はっきりと欠陥人間としての自分を自覚させられます

もうやめさせてほしー

 

上記のように能動とその先の充実に思いを馳せる一方で、俺という人間について他者からなにかしらの輝きを見出されて、やや受動的にゆるやかな日々を過ごせていけたらな、という気持ちも大いにある 

 

これらを全部ひっくるめて、一歩まちがえたら本当に取り返しのつかない人間になってしまうだろうな、という危機感が常にある

Twitterでたまに見るような客観的に見て状況がちょっとまずい人のことがあんまり他人事に思えないので、そうならないように現実に向き合い、方向を間違えないようにしながらできるだけ頑張っていきたいな、と思います

 

ごちゃごちゃと…

 

 

これまで自分が人としてダメな原因を経験から探ることばかりやり続けていたが、そんなのって、悲しみの再生産をしないように反面教師として参考にするためにやる分にはまだ意味があるかもしれないけど、それを手段ではなくただの目的にしてしまったら、せいぜい何かをしない/できない理由を見つけることにしか繋がらなくて、本当にやる意味がない ということに最近気づいた

 

あと、そういう内面の変化つながりで言うと、上の「そんなのってもう怪物ではありませんか」という文言について、以前の自分だったら確実に(こんなこと言ったら怪物に失礼だし、自分が怪物とかおこがましいか…)とか考えてたけど、今はあんまりそんな風に思わなくなった

本当は、ちょっと思ってるけど…

 

 

自分らしさが崩れるのを恐れて変化や同調に抵抗し続けていたが、これからはもっと素直に生きていきたい

どうか応援してください