争いは

つづく

迷子

野心をもつことに対する逆張り精神?

 

自分には野心が欠如しているような気がする 有名になるとか、人気者になるとか、大金持ちになるとか、世の中を変えてやるとか、そういった気持ちが、いまの自分の中にはまるで見当たらない

野心の赤ちゃん版みたいな気持ちさえないような

 

昔の自分には多少なりともあったはず だって、小学校の卒業文集なんか、まあまあハードルの高い将来の夢を3つくらい挙げて「むっちゃ頑張ります」という言葉で締めくくっていたくらいだし 無理矢理書かされた記憶もないから、当時はきっと本当にそう思えていたのだと思う 12歳のおれには、野心(?)だけではなく根拠のない自信のようなものがあった 夢を実現させると信じていたのかはわからないけど、堂々と卒業文集に書けるくらいには、自分に不安がなかった どうしてなんだろう?この時点ですでに順風満帆な日々を過ごせていたわけではなかったのに

 

野心的なものを持てなくなっちゃったのは生に意味を見出せなくなったからなのかな 自分のなかで意味を定義することができていないからといった方が適切か いや、おれの場合は生の意味を考え出したのが間違いだったのかも

野心ある人はおのれの生を全うしようとしているように見える 生を無駄にはせんという気概を感じる、なんとなく 生に実直で、投げやりではないといいますか

野心なしに生を全うすることはできても、生を全うする気もなく野心を持つなんてことはできないものなのかもしれない

おれは生を無駄にしたいんだろうか そもそも生を無駄だと思ってるところはありそうだが、そういうことではなくてだな 無駄にしたいんかということを問うておる 無駄にしていいのか、本当に

 

 

このところは何もかもに対して斜に構えた疑問を抱きがち(いつものことじゃんね) 少し前から、たまにチラ見えする他人の野心的な気持ちに対して、いちいち「❔」を浮かべずにはいられなくなった

なぜ、生きて前向きに何かをやってやろうと思えるのですか?

そこで、逆になぜ自分が野心やそれに準ずるような気持ちを抱けないのかを考えた 自分のどういう思考がそうさせているのかというところを、性格とか、その性格に至らしめた原因はなんなのかというところはちょっと抜きにして、振り返ってやったということです

 

 

そういえば、小学生の頃は生に微塵も不安はなく、なんならおのれの生命力をめちゃめちゃに信じていたな 自分に限っては200歳くらいまで生きるもんだと思っていた 少女マンガ雑誌「ちゃお」もしくは「なかよし」にて、いつだったか、少女に見えるくらい若々しいおばあちゃんが主要キャラとして登場する漫画が連載されてるときがあったが、それになる気も満々だったな

時々「自分が死んだら周りはどんな反応をするのだろう」って考えることはあったけど、それはそれとして、めちゃくちゃ生きる気があったよね、不思議とね おれは覚えています

……

昔のおれの、生に対するこのような態度からは、実直さや真剣さもまるで感じられないが、生について少なくとも暗い印象を抱いておらず、好きなことに関する夢を持ったりして楽しもうとしていたらしいことはうかがえる 

生に対して前向きであることはそれだけでその人の可能性を広げるのだな そりゃそうか

いやちがうな、生に対して後ろ向きであることが生における可能性を狭めるんだろう

 

なんにものめり込めず、夢中になれず、没頭できず、願望を唱えるばかりでもがくことさえできなかった

たしかに、生の目的がわからないからって死を目的にしてしまったなら、なにも楽しみようがないものな

死を目的にするのはひとまずやめにしてみたい なにかと斜に構えることも、少しずつ…

 

 

とある人がおれのことを「0から1を生み出す子やな」と言っていた というのをその人とは別の人が教えてくれたことがあった

住宅街の中を考え事しながらスタスタ歩いていると、そのことをふと思い出すことがある 最近は週に2、3回は思い出す(この記事の書き始めの頃はそうだったけど、いまはもう逆に思い出さなくなった。これ、なんのための文?)

その人は当時おれの具体的に何を見てそのように思ってくれてたんだろう いまのおれを見たらどう思うだろうか 何か生み出すことができているかな

 

〜〜

車窓が切り取る景色の向こうの方で雲間から陽光が差しているのが見える

わたしには関係のない光です、そう思いながらスマホの画面に目を落とし、乗り換えの駅に着くまでの暇を潰す

さて、今はどのあたりかしら

顔を上げると、窓の外には柔らかな光が広がっていた 街並みをクリーム色に染め、電車に揺れるわたしたちを淡く照らしている ごく一時的な感動であるが、それは微かで確かな希望のようであった

〜〜

 

他人の存在を生きる理由にすることってだめかな 自分のために生きるって感覚が希薄で、どうしても、(好きな)他人のために生きたい、(好きな)他人のためなら生きられる、とかそういう風に考えてしまいがちなんですけど、迷惑かけないことを約束したらこれも許されたりする?

自分ひとりでなにかを楽しんでいく気持ちも鍛えていきたい所存ではあります、が…

まあ危険か

 

💡

なんか、ここにきて思ったのだが、いまのおれはマズローの欲求5段階層説でいうところの、自己実現欲求よりもどこか低次の段階の欲求がうまいこと満たされていない状態にあるのかもしれないな だとするとすべて説明がつく いまは野心が持てないでいることとかも

かなり回りくどい思考を辿ってしまった 悔しい〜

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そういうこともある