争いは

つづく

瞳孔

自分はこの世界のほんの一部分のことしか知らなくて、自分の価値観はごく個人的なものにすぎない 主体を変えればこの世界はそういうものであふれている、差異があるのは当たり前、あらゆる事物が存在がいろんな可能性を秘めている といった認識でいると、何に対峙してもわりかし驚くことなく、フラットに接することができる

できればおれはいろんなことを受け入れていたい 自分のものさしで自分以外のことをはかって判断(断罪)しようなんて驕ったことだと思うから また、自分自身の思想はともかく、自分の外側にあるものに対する自分自身の態度として、できれば偏っていたくはないという理想があるからだ

(だからといってすべてを愛したり好きになれたりするわけではないし、陰謀めいた主張まで受け入れることはできない 受け流すことはできても)

でも、なにもかもをそうやって割り切っていると感動も少なくなるので、考えものであるなあと最近は感じている 感動は、なにかしらの驚きとそれを感じ入る心によって、意思に関係なく引き起こされてしまう反応であって、いくらか「思いがけなさ」に端を発しているものだと思う

思いがけなさを感じるためには、(言うまでもなく)思いがけないこと、すなわち自分にとって予想外である必要があり、対象が自らの予想の範疇にある限り、思いがけなさを捉えることはおそらく不可能 そのように考えると、すべてを受け入れるつもりで漠然といろんな可能性があるということを認識してかかるのってそんなにいいことではないような気がしてくる 少なくとも、フラットでいることよりもバキベコに心動かされることに重きを置くならば、ある程度限定的に予想をしたうえで世界に対して接するほうが適しているのではなかろうか

あんまり受け入れようとするばかりだと発展もしにくいしね

なんか、似たようなこと前も書いてなかった?

 

自分は感動しないようなことで感動する人がいる

その感動さえおれは咀嚼して飲み込んでみたい なのに、そう思うほどにうまくわかることができない

差異があるのは当たり前 いつかの日記にも書いたが、おれは他者と自分との間に感じられる差異を"自我"と捉えている(捉えるようになった) その自我の所在を認識することを通して、おれは少しの安心を得たりもする

だけど、それはそれとして、全てをわかってみたい 差異を認識した上で、自分の内にはないその感動すらも理解したり、納得したり、共感してみたい

その人の思いや価値観を、自分のものさしではかることなくただ認識できた時点で、もうおれの理想を達成することはできているのだが それでも、やたらにわかりたいと思ってしまうのは、おれがそいつのことを好きだからか?

 

どうしたらいいんだ 分別をつけろ、柔軟にやれってことかしら うむむ

そういうのって、苦手すぎるー

 

いや

思いがけなさに出会うことも、対象をフラットに認識し、そうして理解するということも、いずれにせよ、対象を深く見つめてみることで達成できるんじゃないのか

偏らないように視野を広く持とうとすると、どうしても一歩引いて眺めがちけど、視野が狭くてもその分細かくかつ色んなところをみていけば、いずれ像はよりはっきりとして、概観するだけでは発見できないなにかが見えてくるはず そしたら、対象をさらにきちんとわかることにもつながるんじゃないか

おれがおれである以上、おれ以外の存在としてさまざまなことに接することはできない 結局おれはおれとして、すべてに体当たりしていくしかないんや 認識も解釈も、圧倒的事実によって上書きしていけ

そうや…

 

また「そりゃそうやろ」なことについて長々と考え込んでしまった そして、いつものように自己完結 この芸をおれはあと何回やっていくんだろう

おれが考え込まなくて済むまで、どうかこれからもずっと見ていてね

うそ