争いは

つづく

楽しい記憶2

写真を撮ると、自分の目に見えるものを画像として保存することができる 保存すると、自分の見たもの体験した物事を他者に共有することができる

何かを体験している最中、おれは時々(保存が目的になっていないか?)(共有することが目的になっていないか?)(それによって自身の体験そのものがあやふやになってはいないか?)などと考えたり、考えなかったりして、写真を撮らないという判断を下してしまうことが多い 普通に撮り忘れる場合もあるけど、人が写真を撮っているのを見ていると、なおさら「俺は撮らない。」という意識が強まったりする

癖になっちゃってるから!逆張り

しかしながら、ふと振り返ってみて写真がないと少し寂しいものだ

体験から時間の経たないうちはまだいい いろんなことが映像として実感として鮮明に脳に残っているし ただ、どうしても日常生活を送っていると、その内容がどれだけうすっぺらくてしょうもないものであったとしても、積み重なるうちに半透明の膜となって、大事な大事な記憶の上に覆いかぶさるようになる 体験の過去化が加速する 思い出の画素が荒くなっていく 細かなところが曖昧になってくる なにかが欠落してるのに、元々そこには何も存在しなかったみたいに、やがて脳内で処理されることとなる

わざわざ思い出すことがなくなれば永遠に疎遠になっちゃう可能性もある

 

写真とは、思い出の補完をしてくれるものでもあるのではないかなあ、と今更ながら思えてきた 思い出を"保管"する目的で日記を書くなりしていたところがあったが、これしか手段がない どこかそんな風に考えていたが、全然そんなことはなかったな

そもそも、日記は記憶を保管するのに有効な手段なのか 文章として綺麗にまとめようとするうちにこぼれてしまってる記憶もきっとあるだろうに なにかが脱落した上で整理されている記憶のまとめを後から見て、脱落した記憶を思い出すことって果たしてできるかな

つーか、思い出をできる限りありのままに保管することが目的なら、文章にしろなんにしろ、加工・編集する必要はないのでは?言葉が変でも写真として出来が悪くても、そんなこと気にする必要ないはず なのにね

謎にたたみかけてしまった

 

即時的に、かつ無制限で自分の体験や感情をありのまま保存できるような、そういうテクノロジーがはやくできてほしいな

作るために、勉強しようかな

 

なににせよ、楽しかった記憶や体験を想起するための材料はあればあるほどいい、気がします すべてを自分の頭で完全に記憶できたらそれがおれにとっては理想的だけど、あいにくそういう能は持ち合わせていませんから これからはあまりなんも考えずにできるだけ多くの瞬間を写真に残していきたいよ(容量の問題がどうしてもついてまわるだろうが)

よく考えるあまり大事なものを見落としてることがおれは多すぎる気がする

 

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12月の24、25日のこと

どちらも人と過ごした 24日はまばゆい都会の街、25日は地元周辺のカラオケボックス 家族以外の人間とこれらの日を過ごすのは、実に数年ぶりのことである

25日はただカラオケに行っただけ でもそのカラオケがただのカラオケではなかった ラブホテルのような外観で、ラブホテルのような内装をしている

この冬の期間、大手のカラオケボックスは、利用料金が大幅に高くなる そんな中、25日に行ったカラオケボックスだけは、異様なほど基本料金が安かった フリータイムで800円くらいである ただし、それはドリンクなしの場合で、ソフトドリンク飲み放題をつけると、1600円ほどになるのだった(キシャアアア!!!)

友達が歌う曲はもっぱらK-POPである 友達が韓国語の歌詞を歌っているのを聞くのはいまだに慣れず、すこしだけ不思議な感覚になる おれは人が歌っている間寂しい気持ちにならないように、よく知らない曲でもなんとなくノるようにしているのだが、K-POPはわりとどの曲もノリやすくできてるなーと感じる

好きなアーティストが共通している人とカラオケに行くのも楽しいが、趣味の異なる人と行くと知らない世界に触れられたりしてそれはそれでよいものである

歌唱を一時中断し部屋の中で2022年のM-1決勝一回戦の動画を観た(なおお互い当日視聴済み) 数年前までまるで興味がなかったのに、今ではこうして友達と一緒にちょっと盛り上がれるようになっちゃって そういうのはなんか嬉しい このようなことを体験すると、言い方はよくないかもしれないけど、もっと俗っぽくあれたらなあと切に思う でも幾分かは俗っぽくなれてきた気がしているのだ 言い方アレだけど

M-1の動画を観た後は、引き続き各自好きな歌を歌ったり、ちゃんと歌えないクリスマスソングを一緒に歌ったりして過ごした 特に変わり映えないが楽しい時間だった そういえば、カラオケに行く前、友達がおいしいからと言って友達母作のポテトサラダを食べさせてくれたな(家の外まで持ってきてくれて、寒空の下自転車乗りながら食べた) やや甘めの味付けでなめらかな舌触り、確かにおいしかった けど、お母さんのポテトサラダ食べさせるってどういう行為やねん やさしくて変でおもしろかったな

 

24日は、それこそベタベタに俗っぽい過ごし方をした かなり楽しかったし、その日そのものが愛しいと思える、そういう日だった(どういうこと?) 普段の自分だったらどうでもいいと思っているようなこの時期特有の街並みの雰囲気を味わってみたり、自分ひとりではきっと行かないようなところを訪れてみたり、逆に、自分一人で行くようなところについてきてもらったり 俗っぽいとはいうものの、おれにとってはなかなか新鮮極まりない特別な一日だったって、言ってる(あ、そうですか)

自意識小さく、世界に対してやさしい気持ちにもなることができてよかった

忘れられないというよりも忘れたくないと思える瞬間がこの24日は多かった なのにおれは例によってあまり写真を撮るということをしなかった そのことが、相手から送られてきた写真を見た瞬間、そして翌日のバイト終わりに自転車走らせてる瞬間(バイトでのおのれのポンコツや理不尽に対する嫌さに苦しんでいる最中、昨日の出来事の過去化が自分の中で急速に進行していってることに気付いた瞬間)に、猛烈に悔やまれた

写真に残さずとも印象的だったことは多分ずっと覚えているだろうけど、より印象の劣る(されど印象的ではある)出来事はその陰に潜んでどんどんおぼろげになってしまって、いつか忘れてしまうことがあるかもしれない いっそ忘れてしまえばよいのだが、そのことを心配している時間はただただ悲しい

まあ、別に忘れるつもりはないんですけどね 誰に頼まれたって絶対忘れたくないですけどね

おれのキラキラは誰にも奪わせへん❕

 

 

あんまり楽しいと、つい生きてみるのも悪くないなと思ってしまう 前になにか楽しいことがあったときは逆に死にたくなっていたはずだが、不思議なことである

そういう浮ついた気持ちが続いている間に、いろんな面倒なことに立ち向かっていきたい 少なくともいまのおれはそう思っている