争いは

つづく

雰囲気

仮免許証ゲットだぜ!をした そう、わたしは第一段階の学科と技能をぶっ倒し、ついに車の教習の第二段階に突入したのです

そういうわけで今日は応急救護の学科教習がありました 事故に遭遇した時、人が倒れているのを見かけた時などの対処の仕方などを教えてもらい、さらに心肺蘇生に関する実習を受けました 説明を聞いていると、ふいにとある記憶が想起されます それは、おれが小学校4,5年の頃の夏休みに参加させられた看護師体験のことです 看護師のおばが働く病院で、当時そういうイベント?が実施されることとなり、おれとしては全然やりたくなかったのですが、「夏休みの自由研究にしろ」ということで、やらされたのでした 当時のおれに拒否権はありませんでした そこでは、各診療科の診察(というよりも業務)に関する説明を聞くことができ、斜視の場合のレントゲンの写り方を教わったり、赤ちゃんの沐浴体験をしたり、AEDの使い方を習ったりしました 記憶に残っていることといえば、それくらいのことです あとは、おれ以外に参加していた見知らぬ仲良さげ女子二人組の嫌な感じの態度 ずっと二人でクスクスしてて馬鹿にされているような心地でした このほかには、ほんとうに何もありません なにか伏線めいた出来事があったわけでも、強い感情を抱いたわけでもなく、自分にとってなんの特別感もない やってみれば意外に面白かったということもない でも、ただそれだけのことを教習中に思い出しました そういうこともあったな~と懐かしみながら、指導員のおばさんの顔を見(武田鉄矢……)と思いながら、応急の授業を受けたのでした

今日ペアで心肺蘇生やった子が中学生の頃一時的に仲良くしてた子に似てたけど、別に会いたいとか今何してるんだろうとかそういうのを全く思わなかったことに自分の心の冷たさを感じます

 

音楽を聴くと、その曲をよくきいていた頃のことがぼんやりと思い出されたりする 一時期、パズルアンドモナークというスマホ向けパズルゲーム(略してパズモナ、多分iOSのみ対応)に大ハマリしていて、それを電車の中でプレイする際などに、とにかくひたすらリピート再生していた曲があった その曲とはSoundCloudに上がっていた曲で、ずっとおれの憧れのど真ん中にいる人がLikeを押していたのをきっかけにおれ自身も好きになったのだ 韻を踏んでるわけでもなにか怒りのようなものをまくし立てているわけでもないぽつぽつと語感よく詩をつぶやいてるみたいなヒップホップのような曲調(なんていうジャンルなのかわからない)が切なくて好きだった 切なくて好きになるなんて多分あれが初めてだったと思う

5月頃にスマホを買い替えて、iPhoneからGoogle Pixelになった

しばらくしてから、パズルアンドモナークを再びプレイしようとプレイストアを探すと、同様のアプリがないことを知った 残念 そう思うのと同時にあの曲のことが頭の中に浮かんで、SoundCloudを開いてみた (そういえばこのところはきいてなかったな、Liked tracksの曲はちょいちょい聴いていたはずだけど………あれ〜〜?) 見ると、曲が消えていた それだけでなく、その曲を上げていた人自身がアカウントを消してしまっていた

その人の作った好きな曲を再生すると、その時期を過ごしたときのことが頭の中に浮かんでは消えてゆく そういう時期があったというだけで、別になんの思い入れもないのであるが、なにかに触れることで普段はぽかんと思考の外にある思い出にも満たない記憶がよみがえったりする瞬間は、いつも自我の張りつめた自分にとってはちょっぴり尊いものであったりする しかし、もうその人の作った曲は聴けやしない 頭の中で再生するしか手段がない いまはまだかろうじてとどめてはいる だけど断片はやがて散り散りになって、それとともにしょうもない記憶たちを思い出すこともなくなってしまうのかもしれない

それはちょっと寂しいけど、まあ、パズルアンドモナークさえプレイできたらそんなに心配することもないのかな

人格に迫りたいと思うほどではなかったからその人に関することはSoundCloudの曲しか知らないままだけど、消したのが前向きな理由だといいなとおもう

 

ということをここに書き残し、とりとめのない記憶の保管をせんとします

 

なお日付が変わってしまったのでこの記事における今日とは昨日のことです おわり

日記15

3時50分のアラームで目を覚ますと、自室の電気が点けっぱなしだった スマホの充電も忘れているし、コップにはお茶がなみなみ入ったまま 完全に寝落ちです 最悪だ〜〜

目を覚ました瞬間は夢を覚えていたので、きっと眠りの浅いタイミングだったのだと思うが、どうも寝た気がせず、起き上がるのがいつもより2割増くらいでだるかった ぼんやりしながら服を着替え、朝イチの用を足しながら歯を磨く 洗面所で口をゆすいだらついでに髪の毛を少し濡らして、自室に戻って髪を軽くブローする 寝癖を整えたあとリビングに移動する前に(化粧道具はリビングにある)、気持ちを切り替えるべく、つかのまのリフレッシュとしてX(Twitter)をチラと見る その一連がルーティンのようになっている おすすめタブのポスト(ツイート)にざっと目を通すと、いつもならそれで(よし。)となるのに、今度は物足りないきもちだった 仕方がないので、おすすめのトレンドを覗いてみる え、なんか「カメムシ」の4文字があるんですけど しかも近畿地方のトレンドである いや…

おれはカメムシが苦手です なんかあのフォルムの角張り方とか、色とか、習性?とか それぞれの概念を個別に嫌ってるわけじゃないけど、これらが合体したカメムシに対しては異様な嫌悪感を抱いてしまう 1年ほど前になるのか、家に一匹のカメムシが入ってきて、そこからしばらくの間、ひとつ屋根の下奴と寝食を共にすることとなった とはいえ奴は、リビングの天井の照明のカバーの内部に入り込んでカバーの円形に沿うようにしてぐるぐる徘徊するうちに次の日くらいには死んでしまっていたのだが 誰も死骸を除こうとはしなかった 電灯の寿命が切れるまで、緑ぼやはなんとも不快な存在感をまとっておれたちの頭上に転がったままだった

また入ってきたらどうしよう リビングの照明のカバーが壊れ、今はLEDがむき出しの状態であるので、部屋に入ってこられたらもうなすすべが何もないのである そうなったら途方に暮れてしまうぞ そんな事を考えながらカメムシに関するツイートを引き続き見ていると、大量発生という旨の他に、「夜中に部屋の電気をつけてるとやつらが集まってくる」みたいな文言を目にした あーーーーーーーー 終わった もう、完全におれやん おれの部屋の窓に、カーテンの外に、へばりついてるやん絶対に ああ 無理 生きていけない生きていけない 絶望

生きていくのが嫌になりすぎて、いつもより動きが緩慢になっていた気がする それでもバイトを飛ぶわけにはいかないおれは、ギリギリの時刻に用意を済ませ、自らを奮い立たせて玄関に立った ふー… ドアを開ける そして、恐る恐るマンションの通路側に面した自分の部屋の窓の方に目をやる すると、そこには、緑の集合がいなかった あー安心安心!よかったよかった!

結局その日はカメムシを目にすることはなかったが、バイト先に向かう道中など、飛んできたカメムシが自分の服にくっついたら…といういらぬ想像をしてしまい、そういう場合のあまりのなす術のなさにひたすら無意味に絶望していた

 

バイト中、どこかから変な声が聞こえてきた 小さい子が泣き喚いているような声だった 最初は子連れの親子がその辺にいるのだろうと思っていたが、エンドレスである 辺りを見ても誰も声を気にしていないようで、もしかしたら自分だけに聞こえているのでは…?と不安になった

もずくの品出しを終えた後は、加工品の売り場で他の人たちと一緒に調味料を出すことに 売り場を移動してからも変な声はおれにはずっと聞こえたままだった 奇妙に思っていると、少し離れた調味料の売り場から戻ってきたパートさんが「なにこの声?」と言った 「なんか聞こえますよね!ずっと聞こえるんですけどなんなんですかね、赤ちゃんみたいな……」「え?わたしおっさんの声に聞こえるねんけど」「え!?」 そうこうしているうちに退勤の時間になり、結局声の正体の分からないままこの日のバイトは終了した

バイト後は妹が職場のある場所まで来たので一緒にお昼ごはんを食べたりした ケンタッキーのチーズ月見和風カツのやつ(ボックス) おいしかった 非バーガーのチキンが骨のついたやつだったんだけど、おれのは軟骨だったのでまるごと全部食べられてうれしかった 食べた後、適当に店内をぶらつきながらその日の朝からのことを話す中で、バイト中の変な声を思い出した 妹にも聞かせようと我が職場・スーパーに案内した

しかし、昼頃になり客が増えたためか、店内は朝おれが働いていたときよりもガヤガヤしていて、あらゆる音声が聞こえにくい状態になっていた 妹に聞かせたい音声はさっきの変な声の他にもいくつかあった ひとつは、そのへんな声 ふたつめは、レディミール売り場で最近流れるようになった、うっとうしい、なんかBGMの歌が「おっぱいおっぱい」と言っているように聞こえるプロモーションビデオ、あともうひとつは、やきいも売り場を通ったらその度に流れる変な曲

順路的にふたつめの場所が一番はじめに通るところだったのだが、ガヤガヤしすぎてなんもわからんかった 悔しい 2番目がやきいもゾーンで、それに関してはちゃんと聞こえてよかった 歌詞もメロディもやっぱり変でお互い爆笑した そして最後があの変な声である ガヤガヤしているためか、なかなか声を見つけ出すことができない そうしてキョロキョロしていると、先に声の正体らしきものが見つかった 肉のプロモーションビデオで、アメリカンなイメージで、男の人の声がテンション高く「ビーーーーーフ!」などと言ってるやつである バイト中に聞こえた変な声にも波があり、おれには赤ちゃんがこれでもか!というほどに泣いているように思われた部分が、おそらく、「ビーーーーーフ!」の部分だった 興ざめ しかも、声の正体が先にわかっちゃったから、音声が聞こえるようになってももうそのビーフにしか認識できないわけ 二度と赤ちゃんの泣き声には聞こえなかったわけ 本当に、残念だった 妹にはかなりバカにされた なんでパートさんにはちゃんとおっさんの声に聞こえてたのにおれには赤ちゃんのようにしか聞こえなかったんだろう 青黒/白金のドレス、撮ったのかよ/エーアイアイしかり、認識とは不思議なものである

 

そういう1日でした

 

映画観た(エドワード・ヤンの恋愛時代)

エドワード・ヤンの恋愛時代を観た感想または所感のようなもの

 

映像がフォーけ〜レストア版ということもあってか、フィルムカメラで撮った写真のような粗さと色彩がありつつも映像はわりかし精細で、なんだか今っぽさがあった 登場人物(とくに女性)のファッションも、今の自分が見ると現代的でものすごくおしゃれにうつった 当時の"ファッション"のリバイバルによる作用か、それともおれ自身がおれ自身のファッションを見つめる中で流行だけではないおしゃれのあり方に気づいた結果か、そのどちらも関係しているんだろうけど、めっちゃかっこよくてかわいくて、憧(どう)……だった 各キャラのモードというもんができあがってしまっていたね

 

男の人達がやたらといじらしくかわいらしく描かれていたのが印象的だった 情けない男ばかりなんだけど、なんか許したくなっちゃう、そういう愛らしさと憎めなさがあった

それと比較すると女の人達は別によさげに描かれてはいなかったかな 少なくとも自分の視点から見ると、この女なんなのよ!という感じの人物のほうが多かった ナイーブかつ強か 男の人達においては自分勝手さがかわいさでカバーされていた感があったが女の人にはそれがなかった気がする(おれは感じることができなかった)

例外的に、チチというキャラがひたすらにいい子で、かわいくて、妖精みたいで、守ってあげたい気持ちになった でもおそらくチチはそんなこと望んでいないんだよね ただ愛らしく存在するだけの存在ではない そういう自己を意図的に演出しているわけでもない ただ見え方とか印象とは別の意思・自己が存在している だから、おれみたいなことを思われるときっと困るのだ チチの自己と主体性をないがしろにしたくないって思うよ

 

画面構成とかカメラワークのことはよくわからないしそれほど意識していたわけでもないんだけど、ぼんやりと素敵だな~と感じた カメラの動きが少なめだったのかな?(音も少なかった?)そのことによる時空間の圧迫感のなさが登場人物の心情をこちらに想像させる余白を生んでいたように思う 適当言うてもうてるかも

チチとモーリーがふたりきりで話すシーンが美しくて好きだった

 

場面の切り替わるときの導入が面白かった

満腹作戦?

 

映画が始まってからしばらくは、正直なんだこの映画…という感じでよくわからなかったのだが、そのうち引き込まれていったよ 映画館で観れてよかった

自分の中では、シェイプ・オブ・ウォーター、バビロンに並ぶ好きな映画になったかも

 

 

映画、以前は見せられるものをただ観るだけだったのが、ここ数年のうちに、こちらからなにかを感じ取ろうとして観るように自らの鑑賞の姿勢とか態度が変化してきた気がする

作品から物語として表現されている範疇を超えてやたらとなにかを読み取ろうとすることには忌避感があった 明確なものならまだしも、暗喩的なものをわざわざ引っ張り出してくる必要はないように感じていた それはおれの教養に自信がなかったからかもしれないけど、とにかくしゃらくせーと思ったのだ まあ、いまも思ってる なのでなにかを読み取ることは苦手なままだし、いまもあんまりそれをするつもりはない 一方で、感じ取るということには自分の感覚にだけに責任がある感じがして、気が楽だ おれは評論家でもない、それを生業にしているわけでもないんだから、たとえ自分勝手だと言われようともそれで楽しいならいまは十分かなって思う

感じ取るということは、作品そのものではなく、まさしく自分自身を感じ取ることと考える 作品に込められた意味とかわかんないよ 明確に述べられてなければそれは想像にほかならないし そしてその想像なんて、各々の道程から導き出される精一杯の創造物に過ぎなくて、(作品からの影響があったとしても)それが自らのなんらかの反映の域を出るわけがないんだし どこまでいっても作品を通して自分と戯れているだけで、正しいも間違いもない 閉じた世界であるからこそ、一方的に各々の意味を付随させることが許されている …。

自分でない人の作品を観て、結局自分のことに帰着してしまうのはなんだかもったいないような気もするが、見せられるものをただ観るだけではわからないただ自分の人生を普通に生きているだけでもわからない自身のあり方やその変化を知覚できるのは面白い体験だなーと思う また、そういうのを他者と共有することで、作品に対しても自分の見る世界に対しても違った視点が加わることとなり、広がりとか奥行きが生まれるのも楽しい まあ、わたしとしては、好きだ…と思った映画に関しては他者の視点などできる限り排除したいものですが

 

自分なりに映画を楽しめるようになってきたようで、おれはそれがうれしい

恋愛時代

応援が届いたのでこの場を借りて感謝します

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愛?

多分これ、この人自身も(愛…)と思いながらこのメッセージくれたんじゃない

愛をありがとう〜

 

恋愛を頑張るってなんだろう わたしは最初、恋愛相手との恋愛を続けていくことを頑張るということなのかな?と思って、ならば、最近おれに思いを伝えてくれた相手の気持ちに応じて恋愛をしていくべきなのかな〜という結論に落ち着きかけたんですが、どうしても自分の中にある違和感のようなもの、疑問のようなものを拭うことができず、結局その相手にはお断りする旨を伝えました それと同時にアプリも退会した

自分の気持ちがどの程度に達していたら告白に応じるべきなのかとか自分の中での基準が曖昧過ぎて、でもあまり前向きな気持ちにはなれなくて、しんどかったな それまで共有した時間は普通に楽しかったはずなのに、急に生々しく重苦しく感じられてきたり、途中から己の中のしんどさを理由付けすることに囚われていたような気もする なんだかすごく疲れてしまった

自分を正当化するべく、しんどい気持ちを誰かにわかってもらいたい気持ちに駆られたけど、今までまともに恋愛をしてこなかったからおれの恋愛に対する理想が高くなってしまっているのか?と思うと、自分が間違っているような感覚にもなって苦しかった でも、久々に会った友達にそのことを吐露すると「真剣に考えてるだけで理想が高いわけではないと思う」的なことを言ってもらえてちょっと心が軽くなったんだよなー もしかするとあの子はおれが言ってほしいことわかって言ってくれたのかしら

結果として、わたしは自分に誠実であることを選び、そこには相手の気持ちとか期待を裏切ることの罪悪感が伴っていた 自ら恋の場に足を踏み入れておいて相手と同じ気持ちになれない自分がとてつもなく罪深い人間であるような気がして、本当に全員に顔面と性根をぶっ叩いてもらいたい気持ちだった だけど、自分の恋愛を頑張るってそういう思いを伴ってでも自分に誠実であることなのかもっていまはなんとなく思うよ 最近観たエドワード・ヤンの恋愛時代という映画(めっちゃよかった)に感化されちゃってるところはあるかもしれませんが

そう思ったからには、逆に自分に好きな相手ができたときにも傷つくことを厭わずに気持ちを伝えていかないといけないよなー 相手の反応を知るためというよりかは自分に誠実であるために、それをしていけたらいいなと思う

思ってるけどねー

 

自分を甘やかすのではなく、自分に対して誠実である それをモットーに、頑張っていきます

見てて

 

 

引き続き、応援含むさまざまなことをお待ちしております

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なおわたしも皆さんを応援していますし、改めて応援します

フレフレ〜

素直

虚しさと背中合わせ

 

最近特にやりたいことがない やりたいことがあるようで、ない いろんなことが常に何かしら頭の片隅にあって、認識はしているもののすべて簡単に諦めがつくような状態

ギター、ピアノ、服作り、曲作り、映画鑑賞、読書、旅行 などである しかし、これらすべてが諦めのついてしまっている状態なのだ 全部やりたいのに全然諦められる

したいことの1つに恋があった 今もしたくないことはないし、なんなら恋をしようと奮闘しているところであるのだが、いざ恋をしようと奮闘してみると、別に恋をしなくてもいいような気にもなってくる 恋なんてしようと思ってやるもんじゃなく、自分にとっては勝手に落ちるものだった なのに今は努力をしている そういう自分を過去の自分が遠くの方でたしかに見ていて、笑うでもなく、呆れるでもなく、怒るでも悲しむでもなく、ただ無表情を浮かべている その視線におれは時々たまらない気持ちになる

恋をしようと奮闘していると、恋以外のことがさらにおろそかになってしまったりする いっそ恋をやめようかとも思うが、そしたらおれ本当になにもかもできないままじゃんね

 

恋求めし者が集うアプリを利用中である

そのアプリでは自分の好きなものを無数に選択することができて、それがおのれのプロフィールに表示されるので、相手からすれば対象の好きがわかりやすいだけでなく、お互いの共通点も見つけやすい仕様になっている

マッチすると、初めの方のやりとりでは好きなものや趣味の話題が多くなる たとえ興味がなくとも、相手の趣味を聞いているのは気分が少し楽であるが、自分が話すターンとなると別である 居心地が悪くなってくる 相手の好きのほうが度合いが大きいと感じて自分の好きのあり方に自信がなくなってくるのだ いや、そもそも好きなものを選択する時点から自分は嘘をついているような感覚があって、いざその好きについて話そうとするとその感覚を思い出してしまうと言ったほうが適切かもしれない

自分の好きのあり方について言い訳をしたい気持ちにかられる そのたび(相手はそんな厳密さを求めてないだろう)と思って、なんとか頑張って当たり障りなさを演じます

ずーーーーーっと相手に対しても自分に対しても嘘をついている感じだ そんな恋に意味があるのでしょうか

 

自分の好きを偽りのようなものではない正真正銘の真(まこと)にするために、やっぱり恋以外のことに向き合いたい でも恋がなかったら寂しいしおれはまたきっと生きる意味をなくしてしまうんだろう 恋が特別すぎる 恋が特別すぎて、それ以外の時間は空費するばかりになる はやく恋が自分にとって普遍的なものになってくれたらいいのにな

 

 

数ヶ月前は自分のリズムを大切にしたいとかなんとか宣っていたが、他者との関わりを優先させるなら、自分のリズムを全く乱さずにそこにいることは実際難しい

全然リズムを大切にできてなくてなんだこれ?と思っていたけど、もしかすると、人と関わることの醍醐味とは、自分のリズムを乱されること、そこから新しいリズムを生じることにあるのかもしれない(違うかも)

どうやらおれはリズムを崩さずとも人との関わりをやっていけるほど自我が強いわけではないらしい ただ自意識過剰なだけで、思ったことはわりに率直に伝えられるくらいで、別になににも揺るがされないような大層な大事ななにかに裏打ちされているわけではないみたい おれは空洞で、相手の内容物を都度空洞の内部に取り込んで、人の見様見真似でふるまっては、内容物の音を鳴らしているだけの、ただ人間のかたちをしただけの安っぽい立体でしかない、ように思える それはおのれの理想形とは大きく乖離した状態である 実に許しがたいことである

が、そういう自分であることを言語化できたことは、そういう自分であることとは別に清々しい気持ちである

そういう気持ちを大事にしていけたらいいな、と今は思っている

 

大事ななにかはなくて理想があるってどういうこと?勘弁してよ!

 

 

今日はちょっとギターを弾けた

あと、数回会った恋求めし者から告られた おれってどうしたらいいですか?

無題8

自転車に乗って信号待ちをしていると、同じく自転車に乗っていておれよりも先にその場にいた年配の女性の方が振り向いて声をかけてきた 「…〇〇公園ってどこかわかります?」 おれは時々年配の女性から声をかけられる いい人そうに見えているのかなと思うと、常々人からよく思われることを意識している自分としてはなんとなく悪い気はしないのだった 「あーこの道をまっすぐ、ほんとにまっすぐ行くと、左手にあります」と答えたら、おばあさんは「ありがとうございます…」と言って視線を前方にやった 正面の信号が青に変わり、おれはおばあさんを追い抜いて家路を急いだ

急ぎながら、もうちょっとよい伝え方がなかったかなあ…と思った まっすぐ行ったらやがて左手の公園に辿り着くのは本当の本当なんだけど、おばあさんからすれば、もしかしたら、そこに至るまでのただただまっすぐが果てしない道のりかもしれなくて、途中で心が折れて、結局辿り着けないままになってしまう可能性もなくはない おれにとっては自転車でせいぜい5分くらいの距離である しかし、世の中には想像を絶するほど歩みも自転車の進みも遅い人が存在する だとするなら、おれの「せいぜい」という感覚はあくまでどこまでも個人的な「おれにとっては」なものでしかないのだ おばあちゃんのポテンシャルを軽視しているようだけど、なんかそういうのを加味してもう少し丁寧な説明ができたらよかった、って

例えば、その公園が次の信号を超えた先にあることは事実だから、それを伝えられたらよかった それか、どうせ暇なんだし「案内しましょうか?」って言ってみればよかった

おばあちゃんは公園になんの用があったのかなあ 公民館で催しでもあったのかな おばあちゃん、ちゃんと着いたかな まだ自転車に乗っているのかなあ

 

妹は以前寸借詐欺のようなものに遭いかけたという と言っても、当時はそういう行為をする人がいるということは知らなかったらしいのだが、「交番もお金貸してくれなくてねえ…もうどうしたらいいのか……」というおばあさんに対して、ひたすら「ああそうですか……」「そうなんですね…」と気の毒に思いながらも相槌を打っていたら、やがて声をかけてきたおばあさんのほうが「では、失礼します…」と言って去って行ったんだって まじで面白すぎる 直接的に「お金貸してほしい」とは言われなかったみたいだからもしかしたら詐欺ではなかったのかもしれないけど

 

親切に振る舞えることが少ないから、機会さえあれば、できるだけ他人に対して親切に接していきたいなーと思う今日この頃であるが、時として、(状況を考えたうえで)妹のような毅然とした態度をとることも忘れたくはないなーと思っているよ

「今日この頃」おれの言葉じゃなさすぎる

 

ながらく掲示するのを忘れていましたが、おれは今でもお話を待っております ぜひ、聞かせてくださいね

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生活β

梅雨入りて愛し合羽の陶器犬(ブルドッグ

 

炎昼や うだる陶器のレトリバー

 

涼しげなあの子が笑顔 夏光る

 

遭難者の孤独を知れり冷凍庫

 

ZOZO眺む微睡みの午後 扇風機

 

かに茹だる黒き水面のきらきらと

 

中年の頭上悠々アオサギ

 

炎ゆ日受くハンドルの手のいと白き