争いは

つづく

変身

腕がオーロラ色になったことはあるか?

 

幼い私は、ミズクラゲを手で掬って砂浜に投げることが大好きだった

小さい手でも簡単に掬うことができて、ツルリとした感触も楽しくて、そして何より、こんなことができる自分はなんだかかっこいいような気がして、周囲の人間に見せつけるように掬い投げをしていた覚えがある

 

当時はエチゼンクラゲの大量発生がテレビでよく報道されていたように思う ついぞそいつに邂逅することはなかったが、夏にたまに行っていた三重のある海には、ミズクラゲがいつもぷかぷかと浮いていた

サラサラの砂ではなく石タイプのかなりアチアチの浜の上に捕まえたミズクラゲを放置し、泳ぎ終えたのち、やつの形がなくなりかけているのを見ては心の中でひそかに喜ぶのだった

 

ある日、泳ぐうちにミズクラゲとは異なる触手の長い小さなクラゲに出会った そのときの自分がどんな行動を取ったか、逃げたのか、近づいたのか、そのあたりは全く記憶にない

けれど、罰が下ったのであろう いつのまにか腕がめちゃくちゃに痛み出して、いつのまにか腕がパンパンに腫れていて、いつのまにか、腕がオーロラ色になってしまっていた

 

以後、クラゲを掬い投げるのはやめた

 

(この他にも、アマガエルがわがの手の中で腹を真っ赤にして死んでいるのを見てアマガエルを捕まえるのをやめたり、バッタが口から赤い液を出すのを見てバッタを捕まえるのをやめたりしている)

 

今もうっすらと腕に刺された痕が残っている 私はそれを見るたびに、なぜかアイデンティティを取り戻したような気分になる

 

対象に対する無知が恐怖につながる(のかも?)、というのを大学の教養科目のいつかの講義で学んだ なるほどなあ、と思ったけど、振り返ってみると自分の場合は知ることで恐怖が生じている場合が多い 馬鹿なのか?

そして、無知ゆえの失敗体験に自分という人間の核を見出している実感もなくはない

クラゲ刺されは厳密には失敗ではないような気がするが

 

あ!!!!!!

 

おれって成し遂げたことやオリジナリティではなく、あくまで体験をおのれのアイデンティティとして見る傾向にある

 

「できないことをアイデンティティにするのは危険」みたいに言ってる人がいたが、ただ体験しただけのことを自分の個性みたいに思っちゃうのもなかなか厳しい感じがするので、改めようと思う

 

今日のこと

卒業式で着る袴と着物を選んだのだが、試着の着付けをしてくれたおばちゃんから何もかもがちょうどいい匂いがしてよかった