争いは

つづく

それが一番大事♪(?)

メソメソしている いま現在のおれを形容するにまさしく最適な言葉である なんでメソメソしているか、その理由は多いようで実は少ないかもしれない おれとしてもメソメソの全容というものを把握しきれていないのだ 漠然とした不安感が次々と押し寄せて、いまはただそれに揉まれているだけの状態 ギリギリ溺れてはいないようだが、そのうち波に攫われてしまいそうな心地である

せっかくの休みをこんな気分で過ごしていくことになるのはつらい だけど対処の仕方がわからないし、忘れようにも忘れるのが得意ではない なにがメソメソさせるのか、どうしてメソメソするのか、わかったほうが多分マシなんだろう はあ、こんなこと考えたくない ていうか、全然こういう書き出しで始めたくなかったのに

 

4月から社会人になります 社会人という言葉を使おうとするとなにそれ?て思ったりもするけど、要は、学生の身分を離れ会社員になるということです 就職先は県外です 地元を出ます 初めてひとりで引っ越しします 就職先の土地の良さなどは正直まだあんまりわかってないし、これから良いと思えるかどうかも微妙なところです あらゆることが不安すぎていまはあんまり希望を抱いていられません

不安の一つは、やはり不慣れな土地でなんとかやっていかなきゃいけないというところかも 大阪生まれ大阪育ち 地元の街はベッドタウンというかそんなに都会都会したところではないものの、遊んだり暮らすのにそう不便はなかった 移り住むところ(3月26日現在、こっち)も住むには苦労はなさそうだ ただの生活を送っていくには、近所にスーパーはあるし薬局もあるし駅もそんなに遠くはないし、便利な方だろうとは思う しかし、たくさん車が走っていて、冬には雪が降って、自分がこれまで存在してきた景色とは異なる様相がそこには広がっている いまの自分の行動様式も、その場所のあり方に沿うようにして変えていく必要があるんだと思い知らされ、このことに戸惑う気持ちがあるのです

もう一つの不安は、知らない土地への適応をこの身一つでやっていかなければならないということ 今のところ、向こう(こっち)には友達がいません そもそもおれはあまり積極的に交友関係を広げようとするタイプではなく、関係を続けていこうとする根性もなく、大学ではついに一人になりましたが、それでも別になんとかなってしまっていました いま連絡を取り合うことがあるのは地元の友達くらいです 諦めの気持ちと逆張り精神のようなものが板につきすぎていて、友達作りというものを今更きちんとできるのか自信がありません いや、そういう言い訳をしたいわけではなく、" ただ働くためだけに一人でイチからここでやっていく意味! "と思う なにを支えにしてやっていけばいいんだろうか

また、友達や恋人と離れ離れになるのが普通に辛すぎる 会おうと思っても気軽に会えない 会うのにコストがかかることが嫌なんじゃない ハードルが格段に上がること もちろんおれとしてはハードルを乗り越えていくつもりだが、その機会をうかがっているうちに疎遠になっちゃうような気がして とにかく自信がない

なにもかもをやり遂げていく自信が ない 仕事でのぼりつめていくことも考えられない だって近くに誰も好きな人がいないのに、好きなことがないのに 自分のために頑張るとして、このような、生活だけができて文化へのアスセスが遠いところで、楽しみがなさすぎる 仕事を楽しめるかもしれないけど生活を楽しめない状態の上に成り立つとも思えない スマホひとつで本を読めるし映画も観れる ゲームもできる 自炊 手芸に勤しんでみたっていい でもそういうことに勤しめるほどの余裕があるのかはわからないし、家の中だけじゃなく家の外にも楽しみがあってほしいよ ていうかインターネットの開通が1ヶ月先なんだよ~!泣

そりゃ友達とか恋人と会うことは楽しみだ だけど、もし近くにいたらその楽しみをいまよりもっと前提としてさらなる楽しみのことを考えられたはずだし いや、そうでもなかったかな

なんでも悪い方に考えすぎな自覚はある 考えだしたらきりがなく、この地にとどまらない理由ばかりが増えていく

閉じこもって文句ばかり言わず楽しいことを見つけていきたい 見つけることを楽しんでいけばいいのかな

たまにスペースとかやるから、おれにアドバイスしたり、叱ったり励ましたりしてくれませんか

 

おれって暇と退屈、孤独感を簡単に紛らわしたいだけの刺激に飢えたわがまま人間だ泣泣泣 愚痴っぽくなってすみません

 

でも、まだ本当に短いながらもこの土地で過ごしてみて、ここにも生きている人たちがいることを知って、たくさんいるし老若男女多種多様であるのだなあとわかると少しだけ安心したな 結局おれは差別的というか優越的なまなざしをもってこの土地のことを見ていただけかもしれない

より文化的なところに憧れるのは別によいこととして、ここも楽しむつもりでいよう

 

3月が終わってしまうー

 

グリーン・ブック2

※これは愚痴などを含みますし、あんまりよくないことが書いてあります!それと、グリーン・ブックの内容とはなんの関係もありません。

 

好きな男のことが好きだ 好きな男もおれのことをきっと好きだと思う

好きな男とおれは価値観や性格がけっこう異なっている 別にふたりの間で差異があったとして、お互いに対する理解と尊重さえあれば特に問題にはならないはずだが、今現在、それはおれにとって結構な大問題として立ちはだかっている というもの主におれの側が認識することの多いその差異というものは、大抵がおれにとってあまり快よくはないものであり、どうにも覆しようがないように思われるのである(尊敬したり好きだと思うところもある)

たとえば、相手の、あまり他者の気持ちを考えずに思ったことを悪気なく口に出しちゃうところ(悪気のないところがまた憎い) はっきり嫌だと伝えたらもう言わないようにはなったけど、以前は容姿を揶揄するような冗談をしばしば言ってきて本当に面白くなくてむかついたし悲しかった あと、捉え方とか提案が何かと自分本位というか、他者が異なる考え方や認識を持つかもしれないということをいちいち意識していないようなところがあり、こちら側がどのように感じるかについて想像することが苦手っぽいので、そのような態度に接して悶々とする

自分の中で消化できないような差異を認識する経験が積み重なると、それはいつしか不満として精神世界に跋扈するようになる 時々耐えられなくなり不満を漏らして、おれは相手を困らせてしまうことが多い 不満を漏らさぬままただただ不機嫌な態度で接してしまうこともある 相手がおれを悩ますことより、おれが不満に対して素直すぎて自らうまく処理できていないことが問題だろうとも思う(けどずっと我慢することも難しい) 伝えないとやっていけない感じがする

不満を伝えると、おれがうまく説明できないのも悪いけど、相手は「俺そんなに悪いことしてる?」と狼狽え、もうすこし自分だけじゃなく他の人の気持ちを考えてほしいとお願いすると、漠然としているからか、頭を抱えて「気分悪くなってきた」「吐きそう」「頭痛い」と言ったりする 「俺が悪いってことやんな?」という謎の確認を取ってくることもある

正直めんどくさいし、不毛だと思う 相手はただ自分としてふるまっているだけで、他方おれはそういうのに嫌気が差して、相手に対しておれの望むような形をおしつけている 自らの不快感に蓋をするとすれば、そういう構図である おれこそ相手のことを理解できていないし、尊重できていないかもしれない 相手はおれから言わなければ不満を漏らすこともないのに

むしろおれも相手に対してなんも気を遣わないべきなのか?と思ったりするが、別に無理してるわけではない 嫌な思いにさせるよりは喜ばせたいし できれば傷つけたくないし

 

おれが相手のことで困る一方でそれをぶつけることによって相手を困らせてることも事実で、相手と性格とか対人関係についての考え方も異なるんだから、おれとおまえは合わない、関わりを続けていくのは最適ではない、この先のことを考えても合理的ではないだろう と、別れることを検討してみることが最近増えてきた

一度別れることを意識したら、ひとまずそれを保留にして継続していくことを決意しても、ほんの些細なことで別れるか…という思考になってしまう それまで気にならなかったことも急に気になり出すようになった 体型に合わない、シルエット的にちょうどおしゃれには見えないかんじの大きめのサイズの服を好んで着ることや、大して自分も身長が高くないくせにおれをやたらと小さいもの扱いするところ(天井が低いところで「頭ついちゃいそうアピール」をしてきたりする) 姿勢が悪く、足を擦るようにして歩くところ 町中でバイクを見かけたら、会話を止めてまで「お、〇〇や」「〇〇か?違うか」みたいな独り言を言うところ 同じ話を何度もしてくるところ 話したいことを話したいように話して、長い割につまんないところ こっちが話し出そうとしても気付かないのか話し続けるところも

ひたすらこんなふうに思って、こうやって人の目に触れるところで書き綴ってしまう時点でもうおしまいだと思う 第一、恋求めし者集いしアプリを利用し、合理的な手段を用いて合理的に交際を始めたのに、現時点でこんなにも思いわずらいこだわらなければいけないものなんだろうか

しかし相手に言わせれば、人の出会いは一期一会だから大事にしたいし、別れたとしていい人と出会えるかはわからないし、そもそも別れるようなことだとは思っていない とのこと しかも、変わりつつあると思うから見てて…という こいつがこだわる理由はよくわからないが、おれは相手のこのような態度に弱く、あれほど悩んだのに別れる意向を撤回してしまう 結局のところ、いつか自分が否定されないために強がっているだけなのかもしれない

とはいえ、自分としてもやたらと悲観的になるのはひとまずよしてみようという気になる おれは結論を急ぎすぎているふしがあるし、なんでも極端に捉えすぎである とくにホルモンバランスの乱れと重なるときには、自分の直感を信じることだけに思考を費やしがちなのだ あと、一緒にいる合理性とかなんとか言ってるけどおれはいつからそんなに偉くなったのか いや偉い偉くないは関係ない 自分のその瞬間の気持ちだけ大事にして関係を持続させていくことをあんまり意識できていなかった 

もう二度とこんな形で男のことは書かないように、これをケジメとしますから

 

最近、夜明けのすべての映画をみた グリーン・ブックと夜明けのすべてをいつでも参照できるよう心のそばにおいておきたいと思う

 

オムライスBU

冷食のオムライスや焼おにぎりのダンボールには側面に「オムライスBU」や「焼おにぎりBU」という文字の入ったものがあり、おれはそれを目にするたびに(ビーユー)と思う BUの文字はおれに「太ったなにか」を想起させる 太ってるっぽい感じの言葉の響きがあるし、BUをブと読んだとしたら、もうそれは完全にデブのブになってしまう なんかわからないけど、BUの文字はおれの脳内において太ったイメージと紐づいているのだ

最近はBUのことを考えることが多い とはいえ

オムライス、焼おにぎり これらのフォルムをざっくりと痩せているか太っているかで分類するとすれば、両者とも太っている…ふっくらとしている…米粒が寄り集まって一つの形をなしている……そういうわけで、BU(ビーユー) Bold……Unrice(?)…略してBU(ビーユー)……

おれの想像力ではこんなことを考えるのが限界である BUとは、一体全体何なのか どういう意味があるものなのか、知りたいけど知りたくない なぜかというと、知らないうちはそこにとらわれていられるから…

だれかこっそり教えてほしい

 

去年の12月頃から唐突に走るようになった

運動部だった経験もないし中学高校の持久走の授業は嫌い以外の何物でもなかった だけど高校2年の最後に強制的に参加させられるマラソン大会で淀川の河川敷を7km走った際、はじめてセカンドウィンドといわれるような状態に突入した それまでの苦痛が嘘のように体は軽くどこまでも走っていけるようで、まさしく、その経験によって走ることへのイメージが鮮烈に塗り替えられた そうして走ることがそれほど悪くはないことを知っているから、唐突に走ってみるようなことができたのであるが、それでも走ることはしんどくないこともないので、最初は7kmからはじめて、徐々に距離は短くなり、4kmくらいの距離を週に2回走ることを目標にしていまはやっている 一回あたりの距離は短くなったけど歩かなくなったし、ペースも上がってきた(走り始めたときから1kmあたり1分以上タイム縮まった!) 体を動かしたいとか絞りたいとか、もうすこしアクティブに動いていきたい…みたいな動機で始めたのだが、それ以外のモチベーションも生まれて楽しくなってきているところだ それにしても、4kmの距離も走れば30分かからずに到着できるのおもろすぎる

走っているとき、一人だけどなんだか道行く人達がおれを応援してくれているような気分になる みんなが見守ってくれているような気がする 透明の声援が聞こえる

自意識過剰でよかったと思える

 

最近、何かと食べがちでおのれのBU(ビーユー)を取り戻しつつある おれはBUを完全に脱することができるのか…!?

 

 

無題11

好きな男が 「空気」と「世間」 という本を貸してくれた おれの好きそうなことが書かれてあると思ったのか内容がおれのような人間向きだと思ったのか、よくわからないけど多分そういうことなのだろうと思う そいつ自身は哲学系?の授業の教員に教えてもらったのをきっかけにこの本を知ったという 好きな先生がすすめる本だからと読んでみたところ、それなりにいい意味でのインパクトを受けたらしい 頭の中が整理されて考え方がちょっと変わったと言ってた

これは批評とか非難でもなんでもない個人的な所感として受け取ってもらえたら幸いであるが、おれは著者の語り口がなんだかいけ好かなくて、たまにちょっと書いてあることに笑っちゃったりもしたけど一貫してフンという気持ちで読んだ 一通り読んでみて納得するところはあったし、文章が平易で読みやすいから意味が整理される感じはあったけど、今の自分にはそれだけだった この本の中で言われていることを必要とする段階を通り越したというか乗り越えたあとなのだと思う でも今よりもっと若い段階でこの本を読んでいても、もっとフンと思っちゃってたと思う フンと思いつつ受けとめるに至るには時間がかかったんじゃないかと思う(とげとげだったからだ。) そう考えるといま読むのが時期的にもちょうどよかったのかもしれない もうすぐ学校以外の社会の場に参入していくことにもなるんだし

オエー

 

現在のおれにとってはそれほど感動的な読書体験ではなかったのだが、いままではあまりそれとして意識してはいなかった視点が加わったことには間違いないなと思う 世間、空気、個人、社会 個人と社会くらいしか頭になかったように思うし、あんまり世間と社会の区別もしていなかった

そのへんの区別の意識みたいなのが取り入れられてからというもの、最近読んだ小説とか観た映画についても、あの人物は生きるのをどのような立ち回りでやっているだろうといったことをちょっとだけ考えたりする コンビニ人間とか哀れなるものたちの主人公のこと コンビニ人間の主人公は、周囲の人物との関わり合いの描写と生活様式から個人としての意識が薄いように思われ、世間というものに振り回されているような印象を受けたが、最終的なさまを見ると案外そうでもない感じがしてくる 哀れなるものの主人公ベラは、世間というものに内包されるようなさまざまな拘束をすり抜け、大人である身体でもって好奇心のおもむくまま自分自身の選択で行動していたのでめちゃくちゃ個人だな…と思ったけど、孤独というわけでもないし、きちんと自分の身でもって社会を学習して自分になにができるか?みたいなことも考えながら距離感を保ってうまくやっていて、社会の一個人としての存在を認識したうえでなんか健康に生きている感じがする

おれ自身はどうかな と考えてみたけど、考えてみて別にいいことなかった 危うく、壊れるところだった こういう視点は人とか自分の立ち位置とかを分類するためではなくこれからの場でのふるまいとかやり方を考える際に意識してみたらいいかもしれない

 

本っていろんな捉え方や視点などを学べたりしますね

 

無題10

忘れる

先日バイト先で研修を受ける機会があったのだが、その研修の翌週か翌翌週くらいに再び研修を受けるよう促された 違う研修かと思いきや同じ内容である 研修の担当の人(同じ部門にいるまとめ役のパートさん)はおれの研修を済ませたことを覚えていなくて、またおれの名前が研修完了者のサイン欄にあることにも気付いていないのだった 存在を完全にいないものとして扱われたわけでもないのだし、このこと自体はまあそういうこともありますよねと受け流せるものではある だけどおれは昔からなにかと存在を忘れられがちだから 自分がそういう人間であるという認識を取り戻してしまった

とはいえそんな感傷にずっと浸っているわけにもいかなくて、それは品出し娘の看板を勝手に背負うものとしての矜持のようなものであって、ともかくもずくを入れていると、ふと視線を遣った先のパートさんにピントが合った 出退勤の打刻(カードスキャン)を忘れて、よく理由書を書かされているおばあちゃんのパートさん 自身の痛み止めの注射代のために働いているのだという バツ3で夫とは全員死別しているらしい その人を見ていると、人が何かを忘れてしまうということに関して、とある直感が頭に浮かんだ 人は全てをずっと覚えている状態では今が苦しいから忘れるのかもしれない 今そのものに向き合うために色んなことを忘れていくのかもしれない まあ、多分正しくない直感だと思う が、なぜかものすごい発見のような気がして、ひとまずそういうことにしておいたら、ちょっと気分がまぎれてよかった

 

 

暇と退屈の倫理学 を読みました 去年の9月頃に手に取って読み終わったのが最近という通常ではあり得ない読書の仕方をしてしまった(おれからすれば、ありである)が、読んでよかったと思うし、絶対そういう内容の本ではないんだけど、自分にとっては記憶消してもう一回読みたいような本だった まず論じられていること自体がめっちゃ興味深いというか、丁寧でかつほどよく、読みながら自分に問うてみるようなことができるような内容になっていて、非常に楽しかった これは自分でも人生とか生きる意味とか、やり過ごしていくことについて時々考えたようなことがあったからこそかもしれない

あと、まえがきとかあとがきの著者の「俺」という一人称がかっこよくてよかった

 

読んだ後もいろんなことを考えたりした 一つは自分が何を楽しいと思うかについて 振り返ってみると大体が消費にとどまってしまっていることに気づいて落ち込んだが、何を楽しいと思えるかを考えると、自分の頭で考えたことを自分の手で構築していくことが楽しくて、おれの場合それはやっぱり服とか、あとは言葉になるんだろうと思った 最近になり料理もその仲間入りを果たしつつあるように思う でもいずれもいまだとりさらわれてとらわれるレベルではないと感じていて、実際何も生み出せてるわけではなく、そのことに焦らないわけでもないが、自分が楽しいと思えることを知っているのだからまあよいかとはじめて思えた

あの本で述べられていた答えを、おれは次のように解釈している 暇と退屈の運命にある人生をよりよくするのにすべきこととは、人間として生まれている自分が世界に対する柔軟さを比較的備えた生き物であることをわかって、そういう人間としての世界を生きる中で自分の楽しいという気持ちと何がそうさせるのかをわかること そしてそれをやってみたりすること である、と 解釈というにはそのまますぎるかもしれないし、ちょっと忘れかけてるところもあって間違ってるところがあるかもしれない(気になった人は読んでみてほしい) おれ自身はこのように受け取り、上記のようなことを考えたりしたというだけである

2つ目に考えたことといえば、便利と不便について おれはたまの「まちあわせ」という曲が好きだ その歌詞の「不便だ不便だ不便だ不便だ でも不便のほうが便利よりだいぶいい」という言葉に共感を覚えて以降、時々そのフレーズを脳内再生してはため息をついたりする

便利より不便の方がいいとはどういうことか 便利はたしかに、便利だ それ自体は最初新鮮で画期的だし、便利をうまく取り入れることによって自分がしたいと思うことを効率的にやっていくことも可能である それでもおれが不便のほうが便利よりだいぶいいと思うのは、ただのお得意の逆張り精神だけではない あくまでおれの考えではあるけど、不便のほうがそれに対する向き合い方、捉え方、やり方みたいなものに自らの裁量が許されているように思われるからだ

便利と不便、この対立する境地にはぞれぞれに、言葉が持つ意味と同一の実感というものが伴っている 実感があることは共通していると言える けれども便利と不便は、言葉の意味だけでなく、その境地が結果か過程かという点でも異なる 便利がさらなる便利への過程であると主張する人がいるなら、それは便利ではなく便利を目指す不便の過程であると言いたいし、もし便利と不便以外の概念を用いて便利をその過程というのならば、それはなんというか、あまりにも、ずるいと思う(なんだそれ) ひとまず、強引だけどそういうことにしたとき、おれが思うのは、不便は便利に至るまでの過程であるからこそ、その境地においては便利を目指すための自らの工夫というものが許されているということであって、またそれゆえに、消費ではない楽しさが生まれる余地があるのではないかということなのだ 伝わらないかもしれないけど… このことについて、少し前により直感的な段階で考えをツイート・ポストしてみたとき、相互フォローの方が反応してくださった 便利と不便のバランスの取り方難しいよね〜といった内容のことをつぶやいていて、最初はふむ?になったのだが、しばらく考えているうちに腑に落ちた 不便の中に生まれる手触りを大事にしたいけど、生活を成立させるならいちいち考えたりしないで済むようなたしかに領域も必要ではあって、その"妙"のことな…

ここまで考えて3つ目に考えたのは、余裕について 本の最後の方には、これを自分だけではなく自分とは状況の異なる他者のために考えることができたらよいね、みたいなことが書かれてあった そのことを、便利と不便について一通りのことを考えた後、ふいに思い出した たとえば、時間もゆとりもない人にこの考えを受け入れてもらうことってできるかな、きっと嫌な気持ちにさせるんじゃないのかな 色々考えること最近は増えていたけど、他者のために考えられたことこれまでなかったかもな おれが考えることっていつも自分視点の自分事ばっかりで、基本的に自分の感覚にしか則していないんだよな ここではじめて、さっきまでの考えは、無自覚にも余裕のある自分だからこそ納得できるものであったと気付いたりした もし、便利と不便に関して自分が考えていることが間違いではないとして、もう少し他者のことを念頭に置いてこのことを考えるとするなら、余裕というものについて考え、そのうえで余裕を行き渡らせるために必要なことを考えることも必要だろうと思う あいにく、現時点でおれは余裕がどういう状態を指すのかということについてしか考えが至っていない 物事の捉え方を自分で考えられる(選べる)状態が余裕があるということなんだとひとまず結論付けてはいるが、その状態を行き渡らせるにはどうしたらいいかがわからない 考えてもほとんど綺麗事しか浮かばず画期的な策を思いつくことはできないままだ 他者のために考え、策を練り実行していくことは簡単なことではない 今までそういったことを自然にやれてこなかったし余計にそう思うのかもしれない でもそのことを知ったからなのか、自分にできる範囲から手を貸すことの大切さをようやくわかれた気がする

 

ビロード

新年もうすぐ明けますねおめでとうございます

そろそろ今年が終わろうとしています

 

先日、このブログの記事の投稿数が100を迎えました

今年の5月の記事の中でなんとなく掲げた目標のようなものでありましてこの件に関しては、自身の中に確約するような気持ちもなく、また読者の方々におかれましても一切の期待心を抱いておられなかっただろうとおもわれるのですが、ともかくおれは平均して月に5度、多い時で7度ほど心をしたためながら投稿数を100に至らしめたのです

 

確約する気持ちがなかったとしても、おれはやはりひとたびそんな素振りを人の目に触れる場でやってみたからには、無視するわけにはいきませんでした みなさんの中に一切の期待心がなかったとしても、おれはただ一筋の期待を裏切るわけにはいかなかったわけです それは自分自身に対する自分自身の期待というものです そんなせめてもの期待を裏切らなかったことで、1年の終わりにおれはおれのことを許せない気持ちにならずに済みそうです

 

とはいえ許せないことはたくさんある、と言いたいところだけど、思い返しても大して許せないことはないかもしれないな なんだかんだおれはよくやれたように思う もちろん理想というものを今一度意識して掲げてみるとすればそうはいかないし、もう少しこういうことができたらというのはあるのだが(服作る、ギター上手くなる、曲を作る)、地に足ついて自分に向き合うことはできた気がする いや、どうだろう 消費で誤魔化してしまっているところも大いにあるか

けれどもおおよそ納得感を感じられているのは事実で、楽しいことやうれしいことばかりがあったわけではなくても、そういう日々を過ごして結局のところ悪くなかったと思う今であるので、そういうことにしておきたいし、そういう面で捉えられるようになった自分のことをただ一筋の優しい目で見つめてあげたいと思います

 

もう4年以上になるのに全部で100って考えると少な!という感じがしなくもなくもなくもない 少ない 少ないなりには多いということにしたい 少ないなりに目標は達成したんだから、あんまり野暮なことは言わないでもらいたい 誰もそんなことは言っていない

少ないなりに多いなりに多少は文章もマシになってきましたかね 自分ではそのよう思いますし、書くことに対して以前にはなかった余裕が生まれたように感じています 投稿数100にしたいという気持ちからそのことに関する焦りはあったけど、苦痛を伴うことも投げ出すこともなく自分が形にしたい言葉にできていたのかなと思う あと自ずと、身の回りの出来事をありがたがるというか、すべてがそう大事で大層なものというわけではないのだが、なんとなく見つめてみる頻度が多くなったかもしれない なにが普通かはさておき、これは普通によいことである

 

抱負とか語るの柄じゃないけど、来年はもっと人に優しくなりたい 自分はこう思うけど相手はそうじゃないかもとかそういうのを考えているばかりじゃなく、たまには優しさを押しつけることができたらいい 誰かに興味を持って、親切をやっていきたい 最近気づいたのが、優しいにも色々あるということ 優しさには受動的なものと能動的なものとがあり、とくに能動的な優しさとは、他者への慈しみの心だけではなく自我の強さまたは多少の自分勝手さ、強引さがなければ発揮できるものではないのだ、多分 他者の気持ちとか状況とかを深く考えている場合ではなくて、自分がどう思うか、どうしたいかが能動的な優しさの鍵なのだと思う 気がついたらおれはそういう気持ちがわからなくなっていたから、取り戻していきたい

あと、風潮とか雰囲気に流されずに自分がその時やりたいと思えることに向き合えたらいいな 漠然としすぎているかもしれないですけど、本当にそう思っています

 

今年が終わりますけどだからなに!

 

楽しい記憶3

マイ・フレンド・ウェント・トゥ・岡山・ウィズ・おれ

 

岡山に行きました おれは来年就職で中部地方のとある場所に行くことが確定しているのですが、そうなると地元の友達とはそう気軽に会えなくなるわけで、とはいえまあサンダーバードに乗るなりすれば全然帰れたりはするんですが、まあやっぱ物理的な距離が離れてしまうので、それがさみしいので、なんとかおれがどこかに行っちゃう前にどこかに一緒に行こうやということで、友達がおれを岡山に行く用事に誘ってくれたのだった

その用事とは、友達が最近推している感じのグループの公演というか、お披露目会みたいなもの 既存グループの派生?で、オーディションによって選ばれたメンバーによって構成されており、まだ"ここ"に生じたばかりのグループである

当初友達は推しのかわいさなどを説くばかりだったが、様々な理由から次第に盲目的な感情は落ち着きグループの将来などについて一抹の不安を覚えるようになったらしく、岡山に向かう前の電車の中では、オタクでもなんでもないおれの客観的な意見を聞いてみたいと話していた

おれはいまだかつて自分の内部に推しという存在を持ったことがない 頭ではこういうものとわかっていても、いまいちピンときていない存在である 推しをもつことに憧れるというか、生きるモチベーションを保つ手段として自分もその行為を取り入れることができたらとは思っていたけど、叶わないままだった 今年はたまたま自分の大学の学園祭の日に用事で大学にいて、出店で焼き鳥を買ったのだが、その際体育会系っぽい売り子のひとに「あなたの推しを教えてください!」という質問をされ、「いないですっ」と答えたら「作ってください!」と返されて以来(実際そう返すしかないだろうが)、推しを作りたいという気持ちもはや薄れてきている

友達はおれの意見を聞きたいと言っていたけどあわよくば布教できたらみたいな気持ちもあったんじゃないかと思う でも推すのってなんか自分にとってはピンとこないし…という感じで、ハマらない予感はあったけど、異文化交流的な心持ちでお誘いに乗ることにした まあ公演とかっていうより友達と岡山に行ってみたい、友達との時間の共有を楽しみたいという気持ちのほうが大きかったかな

電車を乗り継ぎ現地には13時頃に到着した その道中には、男女の友情の話とか、同性に対する気持ちとか、情というものについて少し話した 友達の話を聞いていると、おれはどうも他人に対する興味というか情が薄いように思えた 友達は特定の個人に対して〜してあげたいみたいな気持ちになることがあるらしい まあそれは別に普遍的な感覚だとは思うのだが、なんか改めておれ自身がどうかを問われると、個人を特定せずにそういう願望を抱くことはあっても、あんまり誰かにまっすぐにそう思えたことはないような気がしたのだ 言い訳するみたいに、「おれは他人のことを分析するような視点で捉えてしまいがちで…」と言ったら(今考えるとなんの言い訳にもなってない)、「分析したうえでそう思うんやで」と言われかんぜんに唸る他なかったよ そういう存在にいままで心当たりがないのか聞かれ、必死に振り返った末にずっと好きだったしいまでも特別に思う人間のことが頭に浮かんだが、本当にその人しかいなくて、ワロタ…(泣)(焦り) なんとなく記憶を改ざんしてしまってるだけで、本当は節々でそういうこと感じてきてたのかな

推しという存在を作れるか否かももしかしたらこういうところに関わっているのだろうか?

 

ひと通り辺りを散策したあとに、近くにあった倉敷市立自然史博物館に行った 社会人の友達と一応学生に分類されるおれふたりの入館料を合わせても200円くらいだった 入口をすぐ入ったところにナウマンゾウの親子がおり、目は緋色をして、おれたちの存在を察すると、大きな鳴き声を上げて動いていた 順路を進むと剥製とか虫の標本、植物、化石や地質に関する展示もあったりして、自然をいつもとは違う角度から眼差しで見ることができた 友達としてはこの体験がその日のハイライトであったようだ たしかにかなり楽しかった みんなに来てほしいけど来てほしくない気持ち!

自然史博物館の近く(美観地区の少し外れたところ)におばちゃんが営むソフトクリームやクレープの安いお店があり、簡素な感じではありますが素朴なおいしさでおすすめです クリームチーズと生クリームのクレープを食べてください

 

公演は、まだ生まれたばかりのグループということもあり、ちらほら空席も見られた 中にはお行儀のよくない感じの人もいたけど、それでも、それなりにグループやメンバーのことが好きな人たちが、それぞれに色んな思いをもってここに臨んでいるのだと考えると、なんだかその人たちが愛おしく羨ましく思えると同時に、そのような人たちの集まる場所にグループに対するなんの愛着もない自分がいることに不思議な感覚を覚えた 以下、感想

友達が問題視している部分はたしかに納得できたが、全体の印象として聞かされてたほど悪い感じでもなく、特にパフォーマンスは素人目に見て素晴らしかったし、アイドルってすごいな〜としみじみ思った あと一番印象に残っているのは、顔面の美しさ 顔面、美しすぎる 客席まで降りてきてくれたり、帰りには近距離での一瞬のお見送りもあったのに、美しすぎて恥ずかしくて直視できなかった だから、美しかったことはおぼえているけど、正直あんまり記憶にない そのことを友達に話すと「自分も最初はそうやったけどもったいない!と思ってちゃんと見るようになった」と言っていた まあねーーそうだよね、わかるよ だけど、用意された機会ではあるとはいえやっぱり通常人の顔ってそんなにまじまじと見るものでもないし気が引けちゃうんだよな

改めて、推すってよくわからないなと思った 恋ならわかる おれがそのグループを好きになることがあったらそれは恋だろう どこまでも受動的で、じわじわと秘めた一方的な恋

もしかして、"推す"とはその正当化なのではないか

違うか、すみません でも愛に似ているようで性質は恋に近い気がする

 

その日の晩は友だちの祖父母の家に泊めてもらった 迎えに来てくれた友達のおじさんの車に乗って家に到着すると、そろそろ23時だというのにおばあちゃんが起きていた 手作りのいなり寿司やポテトサラダ、刺身などが用意されていて、さらにお吸い物を温めてくれた

おじいちゃんはすでに寝ていたが、うさぎのきっちゃんは元気いっぱい こたつのある部屋をぴょんぴょん飛び回っていた おれには初めて会うというのにそんなに警戒する様子もなく、小さくてふわふわした体を撫でさせてくれた(きっちゃんが)

翌日は、朝飯(白米、焼き鮭、卵焼き、いなり寿司とポテサの残り、カットトマト、お吸い物、ふぐのみりん干し、サニーレタスの炒め物など)をたんまりと頂いたあと、おばあちゃんの畑でいも掘りをさせてもらった いも掘りと聞いてさつまいもを想像していたが、実際にはじゃがいもでちょっとウケた おれたちのために掘らずに残してくれていたとのこと たくさんとれた

掘り終わって一息つくと、ふと、電車の移動中に読んだ星野道夫旅をする木」のことが思い出された 腐葉土の空の袋にじゃがいもを詰める 畑には一匹のモンシロチョウが飛んでいる 土の感触、匂い 今のここにいるということに集中してみたくなった しかし、おれにはそのくらいの情報を掴むのが限界だった でも楽しかった おばあちゃんはその頃にはおれのことを名前で呼んでくれるようになっていた

その後、近くにある日本一の駄菓子屋さんに誘われて行ったが、お腹いっぱいすぎて食べたいものがなにもわからず、そもそも駄菓子に対してそれほど思い入れがあるわけでもなく、でも来たからにはなにも買わないのもあれだし、と気付いたらチョコレート系のお菓子ばかりカゴに入れていた 日曜日ということもあって店内は家族連れやカップル、友達同士などで大盛況のにぎわいで、友達も含めみんな楽しそうだったのだが、だだっ広い店内でなんの情緒もなく駄菓子ががさっと置かれているのをみて、なにもわからなくて、そんな自分をたたひたすら寂しく疎ましく思った

友達の祖父母の家に戻る道中にはじめて食べた、王様のかんむりみたいなチョコ入りのクッキーがおいしかった

 

地元に帰る前にカフェに行くことになったのだが、おばあちゃんが車で送ってくれた上に、おれにまでお小遣いをくれた おばあちゃんすぎる(やさしすぎる) おれもおばあちゃんって呼んでいいですか?

カフェではチーズケーキとコーヒーを注文し、チーズケーキが思ったより小さかったけどぎゅっとつまったかんじで美味しかった タルトを頼んだ友達がチーズケーキをチラチラみておいしそう〜と言ってきたけど、一口もあげようとは思わなかった(やさしくなさすぎる)

帰りの電車に乗る前、友達がおばあちゃんのご飯について「久しぶりに食べるしおいしいからもっと食べたかった」「もっと食べたいのにもう食べたくない!と思っちゃったのが悔しい」などと話していたのが印象に残っている その子の心がなんだかすごく豊かだと思った

ひたすらに睡眠することになるか思われた車内では行きよりも会話が盛り上がった 生きていくことに関してとか、ちょっと昔のこととか、推しとか、グループのこととか、オタクとしての考え方とか

家まで歩く間は何を話したっけな

 

あと2,3か月もしないうちに地元を離れる

 

明日、友達がおばあちゃんから送られてきた野菜をおすそ分けしてくれるという